「四角いもの」覺書 - 平成十八年四月

平成十八年四月

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Ralph Gibson : Refractions / thoughts on aesthetics and photography (STEIDL/MEP, 2006)

豫告ばかりで、なかなか發刊されなかつたが、やつときた。故ヘルムート・ニュートンへ捧げられてゐる。薄い本だが英語ばつかり。洋書だから、といふより文章中心の本。ギブソン自身が、自分の寫眞に關する考へ、どんな美術作品や寫眞から影響を受けてきたかを述べてゐる。追々讀んで行く、つもり。未見の作品もちらほらある。

H18-4-5

安村崇『日常らしさ』(オシリス、平成十七年)

家のなかの小物。食器棚、灰皿、足拭きマット、ラジカセ、ゴミ箱、魔法瓶、電話等々。背景となる壁や床も含めて、今ではいくらか時代遲れな、といつても今でも普通に見かける意匠である。大して取柄があるではないにせよ、多くの日本人にとつて馴染みの品々である。

それでゐて、不自然な印象がある。よく磨かれ、過剩に片づけられ、ほとんど影なくあてられた照明の元にある状態である。普通はたいてい、もつとゴチャゴチャしてゐる。住む人の臭ひがするものだ。かといつて、作りものでもないし、實際に現在も使はれてゐる家であることは、細かく見ればその物の手入れされつつ古びた感じで分る。なかに一人、若い男の肖像があつて、これだけが少し浮いてゐるのは當世風に髮を染めてゐるせゐだが、違和感といふ程ではない。これが紛れもなく現代、といふことを知らせてゐる。

構圖が絶妙で、緊張感とそれによつてかもされる可笑しみがある。「日常らしさ」といふ通り、日常そのものから何かを取り出して、あらためてしげしげと眺める感じである。タイトルは、日本語として間違つてゐるとまでは行かないが、耳慣れない言ひ方だ。少くとも口にすることはない。どこか落着かない語感が内容に似合つてゐるとも言へる。

解説が三人もついてゐるが、最初に外人、マーティン・ヤッキといふ人。彼は完全に歐州人の目で、「現代日本人の家に見る現代日本」をそこに見てゐる。それはそれで「誤讀」ではなく正當な見方だが、見慣れた人が面白いと感じる、寫眞と現實とのズレにはあまり氣づいてゐないやうだ。(これは逆に日本人が外國の「日常」を寫した寫眞を見るときにもあることだらう。たとへば、Martin Parr の作品を見たとき、英國人には英國人の、日本人には日本人の、見方・發見があるのだらう)

このあひだ買つた、牧野智晃の本と手法・對象に共通する部分があるだけに、全體として對照的な印象も覺える。いづれにせよ、記録性と作爲的・美的な表現とが巧みに兩立してゐて、なほかつユーモアがある。

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森山大道『写真よさようなら』(パワーショベル、平成十八年)

來た。白い表紙を開けば、艶のある紙の上の黒黒としたインクが香しい。なかなか上等な仕上げ。

三十年前の本とは、全く別物である。しかしよく見れば、やはりコピーである。元の本に存在する以外の何かがあるわけではない。コントラストを高くしたため、はつきりしたところもあるが、潰れてしまつたところもある。端が少し切られてゐる。元の本が、どちらかと言へば白つぽくて、もやもやとした畫質で、霧がかかつたやうな印象であるのを、メリハリをつけて整理した感じか。別の本なのだから、それが惡いわけではないのだが、白黒はつきりさせられて、どうも何だか、こちらの氣持ちが入り込む隙間が見つからないやうな。いや、まだ、これからじつくり見る本。

Kato