「四角いもの」覺書 - 平成十八年一月、二月

平成十八年二月

H18-2-28

Still There´s No Place Like Home.

久し振りにTVのスイッチを入れたら繪が出てこない。枠より短い横線が一本だけ眞ん中に浮んでゐる。音は聞える。色の變化がある。どうやら、その線分上で、やることをやつてゐるやうだ。一年以上つけないでゐたら、二次元から一次元へ世界が縮んでしまつた。ああ、棄てるのに金がかかるな。

帳尻を合せるわけではないが三次元映像を眺める。The Keystone View Company 發行 Tour of the World は、横長のカードに一對のステレオ寫眞(印畫紙)が貼つてある。それが本の形をしたケースに入つてゐる。タイトル通り世界の名所である。グランドキャニオン、ナイアガラ瀑布、ピラミッド、スエズ運河等々。裏に説明が書いてあつて、Copyright 1907とか1913とある。睨んでゐる内に奧行きをもつて現れてくる(覗くための眼鏡もあるが面倒なので使はない)。それは百年前の情景で、褪色してゐるし染みも汚れもあるが、生々しさを失つてゐない。

家族團欒の寫眞が交じつてゐる。よくよく見ると、その中の御婆さんが他ならぬ『世界旅行』を、覗き眼鏡を使つて樂しんでゐるではないか。この映像装置は百年たつても使へるのだ。

Still There's No Place Like Home

この寫眞のタイトルはまだ、我が家のやうな場所はないである。「自分の家にゐながら世界の風物を眺める」と云ふ娯樂を擔ふメディアとしては、今ならTVやインターネットが代表であらう。その先がけとして、かうしたステレオ寫眞が作られたことをよく示してゐる。(日本でも作られてゐる)

國内某オークションで安く出てゐたのを見つけた。私のところまで流れて來るのだから大量に作られた筈だ。檢索でもして探せば必ずどこかで賣られてゐる。

H18-2-25

鶴舞の古書會館へ。繪葉書を一通り見てからぐるぐる。石内都『爪』を手にとつて、かういふのはあまり好きではないが、と言ひつつも。ところが歸つて椅子に坐つたら、同じ本が視野に入つて「ああ、やつぱり」、さういへば新本で買つたな、豐橋の精文館で。そのときもきつと「かういふのは好きではないが」と思ひながらの筈だ。けふのは帶附きだつたので、帶だけ取り外して棚の本へつける。「別れの箱」に放り込む。

H18-2-24

「蒼穹社」

昨日某オークションで深瀬昌久『鴉』(蒼穹舎、昭和六十一年)が思はぬ高値で落札された(たまたま見た)。思つてゐた相場を越えて、所謂「キチガヒ」じみた額になつたが、値段自體についてあれこれ言ふ氣はしない。それくらゐの價値があると認めた人が二人ゐた、結局それだけのことだ。良い本だと私も思ふ、としか言ひやうがない。いくらか感慨を覺えるのは、自分が定價で買つた本でここまで來たのを、初めて見た氣がするから。

メモを調べてみたら、私が入手したのはこの本が世に出てから何と八年後だつた。この本の發行部数は千部で、それが八年經つてもまだ賣り切れてゐなかつたのである。この種の寫眞集を作り、賣ることがどんなことなのか、これだけとつてもうかがへる。商賣なんてものではない。『鴉』は版元蒼穹舎の最初の本である。

いま氣がついたが、『鴉』の箱と扉に蒼穹社とあるではないか。奧付では正しく、蒼穹舎である。當人も間違へる(どつちでも良いのか?)のだから、他人が間違へるのは仕方がないな。

H18-2-23

野村仁の「世界」

思ひ出したが、野村仁の作品に、目についたもの全てを延々と寫眞に記録して、それを本にしたものがある。製本されたアルバムがずらりと竝んでゐるのを、美術館で見たことがある。野村の作品(の展示風景)をまとめた『Time-Space』(光琳社出版、平成六年)にも載つてゐる。圖のキャプションだけ引くと:

Photobook or The Brownian Motion of Eyesight
1972-1974
photobook
26 vols. each 25.3x22.3x3cm

薄手の紙の片面にプリントしてある一頁に二十一コマの寫眞が、時間の順序で載つてゐる。正確ではないが、本の厚みからいけば、數萬コマから十萬コマくらゐになるのだらうか。毎日の生活をしながら、「視覺のブラウン運動」と謂ふ通りに、目を開けてゐる限り、あちこちへ彷徨ふ視線を記録し續けたのである。同書掲載のインタヴューから、關係するところをみると、大量の寫眞を途切れることなく撮影するため、毎日、コマ撮りのできる16ミリの撮影機を持歩いて、それが三キログラムの重量があつて結局腰を痛めたと言ふ。それで、納得したことは「最初は全てを記録したかつたが、拔け落ちるものも多い。見ることの限界も含めて、同時刻に撮れるものには限りがある」と。何やら一種の生體實驗の趣もある話。

昨日(下記)の引用の言葉を借りれば、「根本原理」を「排除」することはできなかつた、といふことか。

H18-2-22

本山周平『世界I』(photographers' gallery、平成十七年)

限定三百五十部千圓の文庫判寫眞集。photographers' gallery で賣つてゐる。つぎの宣傳は本には書かれてゐないから、メモがてら引用。

沖縄の中城城趾公園を取材した写真によって構成。2005年4月1日のわずか4、5時間で撮られた写真を全て掲載。世界遺産でもある中城城趾とその公園内に隣する廃ホテルを撮影。写真の持つ根本的な原理でもある選択、取捨するという行為を排除した挑発的写真文庫。撮られた順序に無編集で掲載されている。

わずかといふほどでもない4、5時間をかけて二百枚の撮影だから、盲滅法どころか一分に一枚も撮影してゐない。つまり選択、取捨するという行為は撮影の間、されてゐたことになる。だいたいその沖繩某所や、某日某時からの4、5時間を選んだのは誰? いや本を作るときに選んでゐないのだ、と言ふか。しかし撮つた寫眞を全部貼りつけるなんて珍しくもない。たとへば結婚式とか新婚旅行とかをすませて、ありつたけの、似たやうな寫眞がつまつたアルバムを何册も作る夫婦はいくらでもゐる。

根本的な原理だの、排除だの、挑発的だのと、大げさなんだな。そもそもタイトルが世界と、でかい。

誰が書いたかも判らない能書に反應してしまつたが、本そのものは面白くできてゐる。細部に凝ることなく、似たやうな眺めが、しかし變化しながら續く。文庫本といつても見開きの片側、しかもその上半分弱のみに、黒い縁取りがされた圖版は明瞭ではない。前半の石垣の黒い影と、後半の、硝子の落ちた窗が白く浮ぶところばかりが、目についてくる。石垣だけが殘る城趾と、コンクリートの柱や壁だけが殘る「廢ホテル」との對比が見えてくる。

H18-2-20

牧野智晃『トーキョーソープオペラ』(フォイル、平成十七年)

たまには知らない人・若い人の本を買つてみる。自宅居間で、仕事場で、妖しいポーズで虚空を見つめる奧樣たち(四五十代女)の肖像。「ソープオペラ」とは米國でTVのメロドラマを指すが、特に状況の設定があるわけでもなささう。ポーズのほとんどは不自然である。テーブルの上で横坐りして蜜柑を膝の上や手の平に載せてゐるのに意味はなからう。

寫眞家が「普通の人たち」の家を訪ね歩いて寫眞を撮る、とは前例がいくらでもあるやり方だが、既存の型に嵌つてゐないのは立派。かなり滑稽だが、しかしそれぞれなりに美しい、と言へなくもないし、それこそが表現したかつたことなのだらう。この人となら、と妄想するもよし、家具衣裳の品定めをするもよし。樂しみどころの多い本。

それにしてもタイトルにTOKYOだの「東京」だのと、ついてゐる本は多い。寫眞集だけでも腐るほどある。縁起の良い言葉か何かなのか。

H18-2-19

圖書館へ古雜誌、不要本を貰ひに出掛ける。美術手帖は「タッチの差」で取られてしまつた。ヲバサンが一人六册まで、なのに十册以上あつたのを全部持つて行つた。

何となく女性向マンガを持ち歸つた。料理人が主人公といふから「包丁人味平」みたいなもんか、と思つたら「料理對決」はしないのだつた。頑張つて十册續けて讀んだら頭がくらくらしてきた。料理以外のことで惱んでばかりなんだね。

H18-2-18

山本昌男展

豐橋のギャラリーサンセリテで、寫眞集『ゑ』發賣記念展がはじまつた。三月十九日迄。タイトルが變つても内容は變らない。壁面全體に小さな寫眞が粗密をもつて鏤められてゐる。雪景色や猿や鶴が多い。季節に合つてゐる。

今囘から、壁のなかから二枚以上が含まれた好きな部分を指定して「インスタレーション」ごと買ふことができるさうだ。一枚で買ふより安く、最大丸ごと(百數十枚)買へば一枚當り六分の一くらゐまでになるが、壁に貼付けた状態で、サインは一箇所だけになる。インスタレーションの値段なんだらうが、竝替へる樂しみがないぶん安い、とも。

「オープニング・パーティー」でのA氏の挨拶のなかに、作品に何が寫つてゐるかといふよりも、作家の美意識に共感できるかどうかで、見る人にとつての作品の價値は決る、といふやうな話。それはさうだ。

美術の値打は「美」だけなのか?、とも思ふ。「正しい」寫眞藝術、「正しい」美術はあるのか。

H18-2-14

最近

このところ「四角」の點檢、整理をしてゐる。物としての状態と内容とについてを一册づつ手に取つて確かめる。内容まで見てゐるのだから捗るわけはない。ことに、ぱつと見て詰らないもの程、どこか取柄はないかと行つたり來たり頁をはぐることになる。諦めがつけば、縁が無かつたと取敢ず段ボール箱に詰める。あとは棄てるか賣るか。

保管のために特別なことをしてゐるわけではないから、傷む一方である。本は觸らなくとも埃や濕氣や光で姿が變つて行く。戰前の本でも綺麗なものは本當に綺麗であるが、何が決定的に效くのかは知らない。どうせ變るのなら、せいぜい手に取るべきで、丁寧に扱はれてきた本は好い姿になる。放つて置かれたまま棚の中で古びた本は慘めに見える。

注意するべきは流通時に附けられたもので、さほどの時を經ずに、本に有害になることがある。「セロテープ」や「輪ゴム」は知られてゐるが、保護のための包みに變なものがある。材質が何かは知らないが、透明なフィルムが融け出してベタベタになつてゐた。

平成十八年一月

H18-1-30

二十九日渡辺克巳が死去。

H18-1-23

さよなら、スカイソフト

インターネット書店のスカイソフトが、メールで、ご登録いただいた個人情報が流出した可能性がございますと言つてきた。サイトを見てみればスカイソフトのウエブサイトが外部より不正に攻撃されたため、攻撃内容の確認と防御対策強化のための臨時メンテナンスを行っておりますと休業中。ここのところずつとスカイソフトでは買つてゐない。在庫情報の管理がまるでできてゐないし、やる氣もない間拔け。その上このざまである。これで終つた。

Kato