「四角いもの」覺書 - 平成十七年十月

平成十七年十月

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飯沢耕太郎『危ない写真集246』(平成十七年、ステュディオ・パラボリカ)

ガイドブックだが、主にひと前で開くのが憚られるやうな内容のものを集めてある。ひと言でいへばエログロ、獵奇。それにしても、それぞれに異なる意圖をもつて編輯された本二百四十六册もを「危ない」と十把一絡げにするのはいかがなものか。商賣人の賣り文句なら兎も角も、日本を代表する評論家が。

では、「危ない写真集」とは具体的にはどんなものなのか。簡単にいえば、それを見ることによって、われわれの存在原理を揺さぶられ、危うくされるような写真集ということになるだろう。

ここで紹介された本のうちには、むしろわれわれの内にある確固たる存在原理を、再發見・再確認させるものもあるのではないか。たとへば、ポルノめいた寫眞(またはそのもの)をまとめた本がいくつも紹介されてゐるが、御先祖樣に異性への性的な興味があつたからこそ、我々は存在してゐるわけで。また、たとへば、屍體の寫眞なら、それを見て死への怖れを感じれば、それは全く當り前の反應だ。原理がさうさう危ふくなるものではない。といふか、本一册で危ふくなるのなら原理ではなかつたのだ。しかしそもそも飯沢さんの謂ふ存在原理とは何のことだらう。

それはそれとして、私が持つてゐるのはこの内で十數册あつた。珍しい本、良い本も紹介して、好事家ならずとも寫眞集好きが情報源として買つて損しない本だとは思ふ。また小さく複寫された本の姿は、飯沢さん個人が所有してゐるものであり、變色・汚れがあつたり、ジャケットが無かつたりして、本として「生きてゐる」姿をしてゐる。そこは嬉しいところである。

眞ん中へんの數頁で、特別に作品を大きく紹介してゐるスワヴォミル・ルミヤックは、惡趣味の極み、何ともおぞましい。

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不良の始末

續き。もう一册が早速屆く。開けてみれば皺は無い。これで一件落着である。

いつもかう行くとは限らなくて、何となく氣にしたまま日にちが經つて、時機を逸してしまひ、その後は見るのも厭になつてしまふこともしばしばある。どうも、それは相手にもよるやうで、今囘は長くつき合ひのある店だつたので氣樂に相談できた。

和書だつたら版元へ直接言ふことが多い。亂丁落丁は交換するのが常識だが、その時に作つた全てに及ぶ缺陷だつたらどうするか。交換してもらふにも代りの良本が無い場合である。普通は返品するか、さもなくば諦めるしかない。出版社へ電話で「作り直せ」と言つてみたことはあるが「それは御勘辨を」。

交換を頼んだら、作り直したものを屆けてくれた出版社もあつた。小学館である。鬼海弘雄の『東京迷路』である。これの「初版本」は印刷が腐つてゐた。増刷して最初の不良を直したのである。私がクレームをつける前に、やり直してゐたのだらう。さすが小学館、偉い! と思つたが、しかし最初からそんなもの賣らなければいいのに。

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不良本

Nazraeli Press 發行の「四角いもの」が屆くが、頁のノドの側に皺がよつてゐる。交換する程なのかどうなのか、他も見なければ分らない。買つた店からとりあへずもう一册送つてもらつて、良いはうを取るといふことになる。Nazraeli は凝つた本を作る。これは紙が柔らかい。厚手のちり紙といつた感じだ。見た目、手觸りも柔らかく、效果的だ。しかし、本として雜な仕上げになつてはどうしやうもない。限られた値段で規格外の物を作る困難は理解するが、完璧にできないのならやるな、と言ひたい。

それはそれとして俺は五月蠅い客と思はれてゐるんだらうな。しかし同じ金を拂ふのなら、ちやんとした物を手にしたいのが當然だ。本を買ふことは籖引ではない。

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縮む船

港のある町。運轉しながら進む道の兩側には、銀行や商店が竝んでゐる。その通りの先に白い貨物船が見えた。それは輝く巨大な壁となり、視野の中心にあるべき穴を塞いでゐる。思はず聲をあげてしまふほどに大きな船である。さらに船へ向つて道を進むと、街竝が途切れて、目の前に空が擴がつた。そのとたんに船を見失ふ。ややあつて見つけたそれは、港の風景の一部に紛れ、さほど近くもない場所にあつて、目立つこともない。まるで縮んでしまつたやうだ。今、ちやうど港を離れて行くところなのかと、車を停めてしげしげと眺めたが、それは動かない。何かの理由で、遠い場所からのはうが大きく見えたのである。

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デジタルカメラはカメラか?

名古屋驛西にビックカメラが出店してからといふもの、榮の安さ一番トップカメラは見る影も無い。日曜の午後だと言ふのに閑散としてゐる。それでなくとも店は小さかつたのだ。ヨドバシカメラでも何でも名古屋に進出してこないか、との願望は多くの人が持つてゐた筈である。また、カメラのキタムラが近郊のあちこちの町にできてゐる。ここは品揃へで劣るにせよ値段は量販店。トップの凋落は當然の成行か。

眺めてみれば、もはやカメラ店に並んでゐるのはデジタルカメラが半分以上である。それが色々あつて何が何だか分らない。たとへば「とにかく遠くのものを少しでも大きく寫せるカメラ」が欲しいとする。ズームレンズの望遠側で、ニコンが「350mm」で松下が「420mm」とあるのを見つけて、ならば松下のはうが大きく寫つて好いかと思ふが、カタログで確かめると、受像素子の大きさがニコンは「2/3インチ」で松下が「1/1.8インチ」なのである。350mmや420mmとはあくまで「35ミリ判換算」の焦點距離である。仕樣をよくよく見ると、實際のレンズの焦點距離は同じではないか。松下は受像素子が小さいからそれだけ見かけが大きくなるだけなのである。ニコンで撮つても少し端を切れば同じか、多少畫素數は減るが八百萬ピクセルもあるのだし云々と、なかなか單純に比べられなくなる。

デジタルカメラは寫眞に當るものを撮る道具には違ひないが、從來の「カメラ」といふ言葉とは含まれる範圍が違ふ。今までそれは元の語義通りにあくまで「部屋」(とそれに附隨する物)だけを指すもので、撮影するには寫眞フィルムが別に必要である。デジタルカメラとは、部屋と感光部とが一體になつたものを指してゐる。そして部屋のはうは「デジタル」になんかなつてゐないのである。「デジタルカメラはフィルムが要らない、フィルム代・現像代が掛らないから安上り」とは錯覺で「カメラ」代にそれに當るものが含まれてゐるわけである。以上デジタルカメラをカメラと呼ぶことにいくらか抵抗を覺えるひとつの理由。ついでに言へば「銀鹽カメラ」とはさらに。

Kato