「四角いもの」覺書 - 平成十七年九月

平成十七年九月

H17-9-29

無斷掲載で慰藉料

日本ファッション協会といふ團體がファッションの紹介を目的に、街を歩いてゐる女性を無斷撮影、その寫眞を公開したところ、他のサイトの掲示板でその人が中傷された。女性が精神的苦痛を受けたとして、撮影・公開した團體を訴へてゐた。その判決で肖像權の侵害が認められ、慰藉料支拂の命令が出た、と。

判決は「第三者が悪意をもって中傷することまでは予見できなかった」として慰謝料を算定したとある。肖像權の侵害が認められるのは撮影者の惡意の有無、過失の有無とは關係ないやうだ。

私の關心は、表現・記録として路上で寫眞を撮る人々がかうした問題にどう對處して行くか、といふところにある。この場合、服裝がいくらか目立つもので、顏がはつきり分るとは言へ、普通に往來を歩いてゐる人の寫眞である。この判決からすると、實状としては潜在的に「肖像權の侵害」は相當にあることになる。ただ實害が出てゐないので、裁判にまでならないだけなのだらう。

參考:scannersブログ:「無断掲載は肖像権の侵害」判決の衝撃

H17-9-25

映畫で苦手なところ

圖書館でもらつて來たちよつと前の美術手帖をみてゐた。去年六月號が特集『フォトグラフィからデジグラフィへ』でデジタル・イメージに關する話題。「デジグラフィ」とは飯沢耕太郎さんが言ひ出したらしい言葉で從來の寫眞との違ひを強調したいやうだ。肝腎のそれを論じた飯沢氏の本を讀んでゐないからよく分らないが、造語としては正しくないのではないか。光(フォト)が切り落とされてしまへば、かなり前からある所謂コンピュータグラフィックスも、パソコンのモニタを見ながらマウスなんかで描いたマンガも、含まれてしまはないか。

それはさておき、特集中の篠山紀信と庵野秀明(映畫監督)との對談が面白かつた。そこで篠山氏が岩井俊二の『花とアリス』といふ映畫についてこんなことを言つてゐる。

前半はすごくよかった。ひじょうに生き生きと少女が写ってるのね。こんな少女映画観たことない、とびっくりするくらい。要するに主演のふたりが、どういう少女なのかわからない段階ね。でもだんだん、キャラ設定とかストーリーとか、意味や理由がでてくるんですよ。すると、急にちゃんとした映画に収斂して行っちゃう。僕が映画で苦手なのは、そういう"映画になっちゃう"ところなんです。邪魔に思うんですよ。

映画になっちゃう映画とは、言換へれば劇(ドラマ)だらう。劇ならば筋があり登場人物の設定がある。劇映畫といふくらゐだから當り前のことである。商業映畫の監督を前にして、大前提を邪魔といふのだから、かなり挑戰的な發言であるが、同じことを感じてゐる人はゐる筈である(私もさうだ)。

映畫は芝居の代りとして、その座を奪ひ、成功した。だから映畫と言へば劇映畫を思ふのが普通である。ドキュメンタリーと銘打たれても「ストーリー」があり、ある程度の「演出」がなされることは多い。さうでなければ分りづらい。分りづらければ實驗映畫と呼ばれてしまふ。しかし映畫は映畫であり、演劇や小説ではないのではないのか。

私がこれに氣づいた切掛けになつた映畫がある。ダリオ・アルジェント監督の『インフェルノ』といふオカルト恐怖映畫である。これが、全くワケが分らないのである。一往、主人公たちが或る建築に祕められた謎を解いて行くといふ筋があるが、登場人物の行動は不合理である。大した用もないのに、とにかく怖さうなところへばかり足を向ける。限られた大きさを持つはずの建築は無限の迷宮のやうである。オカルトだから何が起つても納得しなければならないやうなものだが、それにしても不條理で意表を突かれることばかり起る。よく謂ふ「芝居の嘘」どころではない。

觀てゐて途中で氣がついた。これには筋が無いのである。登場人物に何かまとまつた性格設定があるわけでもない。そればかりか原因・結果の因果關係すら成立してゐない世界なのである。あるはずだと思ひ込んでゐるから惱むのだ、と。何年か後になつて或る映畫關係の本を讀んだら、これは「純粹映畫」である、と評されてゐた。劇を缺いてゐるのではなく、それに毒されてゐないのである。

H17-9-24

弟子

この間高島屋の古本市で買つた『カメラ毎日創刊20年記念別冊・写真家100人顔と作品』(昭和四十八年)といふ本をぱらぱら眺めてゐる。當時現役の寫眞家百人について作品一點と、彼のポートレイトと、彼について身近な人が書いた文章とが合はせて載せてある。身近な人は主に弟子・助手である。さもなくば友人、家族が出て來る。

入江泰吉の弟子である矢野正善さんは、自分が撮つた師の寫眞を定期入に入れて長年身につけてゐるさうである。自分でない誰かの寫眞を持歩くとは、家族か戀人の物くらゐしか普通はしないと思ふ(自分の顏寫眞なら運轉免許證に附いてゐる)。さうでなく、人生でかうした人を得るのは幸せなことだ。先日奈良市寫眞美術館で入江さんの生涯や作品を紹介する映畫を見たが、そこに彼の顏がいくつか出てきた。美男とは少し違ふが良い顏をしてゐると思つた。文人のやうでもあり職人のやうでもある。小林秀雄の顏に近い印象だ。

その他、どれも基本的に人柄を語り褒めてゐるのだが、深瀬昌久を語る妻の言葉はかなり辛辣。くる日もくる日も写真のことのみを考える、救いようのないエゴイストだと、ほとほと愛想がつきたと言はんばかりである。この後彼らは離婚するのだが理由もこれに盡きてゐるのだらう。

まあ、この手の裏話を通じて寫眞を理解したやうな氣になるのは、樂しみ方としてはそんなに上等ではないのであつて、嫌ひではないが、さう熱心に讀むべきものでもない。

H17-9-23

浪展(奈良市写真美術館

浪華寫眞倶樂部創立百周年を記念した展覽會。「現存する日本最古の寫眞團體」といふが世界でも屈指なのではないだらうか。前半は歴代會員の名作選。横山錦溪福森白陽梅坂鶯里安井仲治小石清中藤敦平井照七等々。硝子箱のなかに小石清寫眞集『初夏神經』が陳列されてゐると思つたら、國書刊行會が出した目下賣出中の覆刻版だつた。オリジナルは「東京都」のはうで見たことがあるが、これも魅力的。金屬板の表紙、さらに針金の螺旋が本の背を越えて突き出てゐるところが何とも。

後半は現在のメンバーによる作品展。さほど前衞的な寫眞があるわけではなくて、スナップショット、自然觀察、肖像、海外旅行、抽象と普通の範圍ながら、その人により傾向が違ふので飽きずに見られた。中島譲といふ人が素晴しい。歩きまはつて見つけたちよつと變な眺め、なのだが時間と場所の選び方が、もうそれしかないくらゐに絶妙。あと一歩立つ位置が違へば、ありがちな寫眞になつてしまふのだらう。このひとはかなり古參の會員だ。

一緒にやつてゐた入江泰吉生誕百年記念展もよかつた。入江さんの寫眞は目に優しい。

關西線の急行「かすが」に初めて乘つた。乘換なしで名古屋から奈良まで二時間。急行料金が掛るが京都經由よりは安い。車窗に次々現れる川の眺めが美しい。平野の川、山間の川、大きな川、小さな川。寫眞に撮つて行くのも一興だがコンパクトデジタルカメラでは反應が鈍くて間に合はない。

H17-9-18

カタログ

Nazraeli Press の新しいカタログが屆く。一度葉書で請求しただけで續けて送つてくれる。かう云ふ「やる氣」が日本の版元にはあまり感じられないのだな。古い出版社ではない。手元にある本では、1990年の Jack Stuler : In the Nature Things がいちばん古い。古書市場で探すと Chris Pichler : I Answered Quite Calmly (1989) といふのが出てきて、これが最初と説明がある。

ここがまだそれほど本を出してない頃に全部集めたいと思つたのは昔のこと。今では色々都合もあつて欲しい本でも躊躇ふ。The Studio of Man Ray といふ本が載つてゐる。Man Ray ist さんが大喜びしさうな本。中に入れてもらつたことがあるといふのだから。

H17-9-8

『マン・レイの謎、その時間と場所』

Man Ray ist こと石原輝雄さんの新刊を讀んでゐる。去年から今年にかけて國内五ヶ所で開かれたマン・レイの囘顧展を觀てまはつた記録である。著者が裝幀印刷製本までして二百頁、限定五十部、五千圓。同じ作品を時と場所を變へて五度見るわけで、自づと展示方法の違ひによる作品の印象の違ひといふ話になる。それぞれの美術館學藝員は戰々兢々なのではないか。

著者の立場は、マン・レイに心醉するファンであり、コレクターである。この本は、自分の體驗をあつめて形ある作品にしたとも言へる。展覽會を巡るといふ行爲が物となり、石原さんの蒐集物の一つになつたのである。手觸りの好い本になるのは當然である。

私もこの展覽會は岡崎で行つた。そこで石原さんともお目にかかつた。この本を讀んでみると、私は殆ど、見るべきものを見てゐなかつたやうである。雰圍氣を樂しんだだけか。(參考:H16-7-19 の覺書

古本市

直前に葉書で案内が來た名驛高島屋十階の古本市をのぞいた。小さくもないがそれ程大きくもない規模である。いつもの店で繪葉書を、あとはぶらぶらと眺める。寫眞關係の讀み物など三册買つたけれど歸つて本棚を見たら同じ物。圖書館で借りて讀んだおぼえはあつたのだが。

十一階の三省堂では洋書バーゲン。あまり量はない。

Kato