「四角いもの」覺書 - 平成十七年五月、六月

平成十七年六月

H17-6-28

觸法本

某店に註文してあつた洋書が、内容的に法律に触れる部分があるため賣つてもらへないことになつた。關税法で謂ふ公安又は風俗を害すべき書籍だつた、と。國内書店への註文であるが、註文後に海外の書店から取寄せるわけで、税關で止められたのか。これは豫想してゐなかつた。殘念。

H17-6-27

森山大道『宅野』(蒼穹舎、平成十七年)

出たばかりの本。宅野は森山に縁のある島根縣の地名ださうだ。海邊の村だ。田舍の景色がならんでゐるのだが、影のところが黒く潰れてしまつてゐて影繪のやうである。明るいところは飛んでしまつてゐる。中間が少い。森山にしても極端だから、わざとさうしてあるのだらう。いくつかの頁では白黒の抽象畫風にさへなつてゐて、それはそれで面白いのだが。

實像と虚像

ジャーナリズムはしばしば使ふが、決して日常で口にされることのない言葉がある。「誰それの實像と虚像」とあれば醜聞である。「何とか社の實像と虚像」といへば内情の曝露である。虚像とは見せかけだけの嘘の姿を、實像とは本當の姿を指すやうだ。しかし普段他人の陰口をたたくのに「あの人の虚像は、實像は」などと言ふ人はゐない。

本來、實像も虚像も光學用語である。まともな國語辭典にはその意味でしか載つてゐない。教科書には次のやうに説明してある。

1点Pから発する光線の集合(光線束)が、光学系によって反射・屈折を受けたのち、1点P’において交わるとき、P’をPの像(image)という。

光線束が実際にP’で交わるとき、これをPの実像、光線を逆向きに延長するとP’で交わるとき、これをPの虚像という。光学系が実像を生じているとき、その位置にすりガラスまたはフィルムをおくと、その上に実際に像を結ばせることができるが、虚像の場合には像を結ばせることができない。カメラのフィルム面上に生ずる像は実像、平面鏡に映る像は虚像である。虚像の場合でも、そのあとに適当な光学系をおいて、実像を生じさせることができる。

最後の文について例をあげると:平面鏡に映つた虚像にレンズのついたカメラを向ければ、寫眞に撮ることができる。また、近眼で凹レンズの眼鏡を掛けてゐるなら、眼の前には常に虚像があるのだが、見る過程において、網膜上には實像が生じる。

ある對象物の虚像は、(光學系の收差は考慮しないとして)その實像と同じ情報を持つてゐる。虚像の「虚」には「嘘、いつはり」の意味はない。醜聞記事における「實像と虚像」は字面だけから類推された意味で使はれてゐるのである。つまり誤用である。

H17-6-15

餘談

菓子におまけを附けて賣ること自體は古くからあることで、グリコのキャラメルなら物心つく頃から馴染である。蒐集慾を煽ることで最初に成功したのはカルビーの「仮面ライダースナック」で、これはあまりにも有名だから今さら言ふべきこともないが、封も切られてゐない菓子が點々とドブに捨てられてゐる情景は衝撃的だつた。勿體ないと云ふだけではない。菓子屋が捨てられることを承知で菓子を賣るのだから、この會社は金のために自分で自分を貶めたのである。それが十にならない子供にも分つたのである。

H17-6-14

古寫眞再現

ブルボンニュース:古写真再現フィギュア付菓子「幕末サムライ」を新発売 (2005年06月06日 )より:

当社は、幕末をテーマとして数々の歴史漫画を手がける黒鉄ヒロシ氏監修により、幕末の歴史上の人物を古写真から忠実に再現したフィギュア付き菓子「幕末サムライ」を新発売いたします。

(中略)

フィギュアについては、それぞれの人物の現存する古写真をもとに、実際に衣装を着て側面や背面の皺の出来具合を参考とするなど、手間をかけ細部にまでこだわってリアルに製作いたしました。

「古寫眞再現」を大きく謳ふところが面白い。それに「フィギュア」(人形)と續くのが何と言ふか、新鮮な印象である。詳しく言へば「古寫眞に寫されてゐる人物の状態を、人形でもつて再現」するのである。

「古寫眞再現」と聞けば、「技法を(も)再現」が、第一に受取られる意味である。つまり、その寫眞を作つたのと同じ技法でもつて作られた複寫、と云ふことにならう。もし、それがオマケだつたら全種類(七人分あるさうだ)揃ふまで「菓子」を買つてやるのだが。

H17-6-13

たかが繪葉書二枚を送るだけなのに梱包材代百五圓の請求。厚紙で挾んだ上に、ご丁寧に「ぷちぷち」で裏打ちした封筒に入れて來た。たしかにこの封筒は高いものだが、過剩包装も甚だしい。他人の金で無駄なことをする。おまけに梱包送料と稱して百八十圓。メール便だから送料が八十圓、つまり袋づめの手間賃が百圓らしい。察するに品物ごとにいちいち梱包・送料その他を考へるのが面倒で、かつ、自分が損しないやうにした結果で、別の商品では經費が嵩むこともあるのだらうが、場合によつてはかう云ふ馬鹿げたことになる。

H17-6-12

夜光蟲

雨も上つて、風も無い。暑さもほどほど。今夜あたりは、と海岸へ出てみる。目を凝らせば、はたして見えた。それは、引く波が砂や石の上を滑るとき、極く弱い光を瞬くやうに放つ。低い波頭に沿つて、青白い光が現れ、消える。ここ數年の内だけでも、夜の海はさらに明るくなつてしまつた。灣を圍んで燈火が列んでゐる。自分の知らない昔とは比べものにならないだらう。それに、今日は大發生といふほどではない。微生物の放つ光は、雜沓のなかの囁きである。

もつと良く見える場所を探して岸を歩いてゐる内に、見失つてしまふ。最初のところに戻つても、もう街燈の反射しか見えない。

H17-6-10

贈られた本を賣るのは惡いことか

浦島太郎さんが、古本屋で池田大作の本をよく見るのは何故か、と書いてゐた(六月七日)。理由はあまりに分り切つたことなので、それを記した電子メールを送つた。以下A氏は私のこと。

A氏によれば、信者が同じ本を複数購入し、買わない非信者に贈与する。読まない、読んでも手元に残す気が無ければ、廃棄するか古本屋に売る。廃棄はまだしも、売るのは私には受け入れ難い。嫌なものでも貰い物で多少の金銭を得るのは私の育ってきた規範から大きく外れるからだ。無論、資源の無駄遣いを無くす、という点では捨てるよりも良いのかもしれないが。また古紙回収に出した本を回収業者が古本屋に回すことはある

この規範は大抵の場合には正しいだらうが、いつもさうとは限らない。こと本に關しては善いこととは思へない。むしろ、もう讀まないのなら賣つたはうが本のためである。本は誰かに讀まれるためにある物だ。賣られることで、また新たな讀者を得る機會を與へられるのである。著者、或は、それを薦めた人にとつても、そのはうが良いのではないのか。

私が大切にしてゐる寫眞集には、かつて他人へ贈られた本がいくらでもある。前の持主が古本屋へ賣つてくれなければ、決して私の手に渡ることはなかつたのだ。よくぞ棄てずに賣つてくれたと手を合はせたい氣分だ。贈つた人と贈られた人の名が記されて、獻辭まで入つてゐるものもある。本に添へられた手紙が挾まれたままのことさへある。それもありがたく見る。型通りであらうとも、そこには切實な氣持ちが必ず籠められてゐる。

「金錢を得る」ことに後ろめたくなる必要もない。それだけの値打があるからそれと交換するのである。著者にとつても名譽なことではないか。一圓にもならない本だつてあるのだ。それが「資源」となるのは、誰にとつても讀むべき價値がないと決つてからで遲くない。

宗教の本ならなほさら。コーランを破つただけで、外交問題すら起るのだ。「大先生」の本が死藏されることもなく、まして「再生紙」になることもなく、日の當る場所で次の讀者を待つてゐるのである。布教目的で贈つた人にとつては本望だらう。そして、次の人は金を拂つてまで讀みたい人なのである。この人こそが眞の讀者なのである。

水谷幹治『indigo』

このところ、先日の東京で買つて來た水谷幹治『indigo』(蒼穹舎、平成十六年)を手に取ることが日に何度か。廣々とした眺めを前にして、そこに滿ちた虚しいものに身を晒す感じが好い。誰もゐない廣場の眞ん中を敢へて横切るとき、或は、高いところから見渡して、雲よりも町並よりも、その間の空つぽなものを意識したとき、そんな感じ。

H17-6-9

photobook lovers

photo-eye の電子メール廣告は、登録すれば、かなり頻繁に屆く。新刊の畫像も附いてゐるし、開催中のオークションの入札状況もありで、目を通すことが多い。眺めてゐたら、must-reading for photobook loversといふ文句があつた。ありさうな言ひ方だが初めて見た。

 

H17-6-4

神聖に浮ぶ血

「國旗カード」といふものを見てゐた。子供に地理を教へるために作られたもので、賣られてゐるさうだ。葉書よりひとまはり大きい。一枚毎に、表面に描かれた旗を見て國の名を答へる。知らない旗が多かつたのは殘念であるが、この種の「殘念」にはもう慣れてしまつた。

その内の一枚の話である。バングラデシュの國旗は、我が日章旗と同じく赤い丸が描かれてゐる。ただし、まん中ではなくて少し横にずれてゐる。地の部分が緑色をしてゐる。緑はイスラム教で神聖とされる色であり農業を表し、赤は獨立のために流された國民の血の色である、と裏面の説明にある。

それを、手に取つて振つてみる。「神聖」の上に「血」が浮んで、搖れてゐるのが見える。紙の動きに少し遲れて、赤色が感じられるからだらう。少し薄暗い場所ならなほ好い。

バングラデシュの國旗に限ることでない。形ではなくて配色によつてさう感じるのである。子供の頃から氣になつてゐた、この「現象」について、説明があれば聞きたいが。

H17-6-2

『季刊d/SIGNデザイン no.10、特集:写真とデザイン』(太田出版、平成十七年四月)

デザインの專門誌。寫眞に關係する内容としては、森山大道のインタビュー、北野謙の寫眞、大西成明の寫眞とインタビュー、平嶋彰彦による宮本常一の寫眞に關する文など色々。ただちよつと全體として何が言ひたいのか。特集のタイトルから思ふやうな話ではないやうな。

森山氏がドイツ寫眞文化賞を受賞し、その授賞式で彼を紹介する講演を深川雅文さんが行つたさうで、その内容が採録されてゐる。この中に土門拳を中心人物にした「写真リアリズム運動」と呼ばれた潮流とあるが、これは「社會リアリズム」もしくは「社會主義リアリズム」で、深川氏でなく書き取つた人の間違ひだらう。

初めての雜誌だが見た目いくらか抵抗をおぼえるレイアウト。判斷できない。

平成十七年五月

H17-5-31

最近

この間東京都寫眞美術館で古い寫眞を觀た。當日の朝まで本當に行くかどうか我ながら分らなかつたが、自分は寫眞のことを何も知らないと云ふ氣分が強くなつてゐたところなので、とりあへず。歴史を追つた展示がされてゐる。まづダゲレオタイプをあらためて觀ると、どれも鏡のやうによく反射して見物人の顏を映す。ここのものは状態が良くて大きいのは、比べるものを知らなくても察しはつく。また風景のダゲレオタイプは稀少なのではないだらうか。しかし實際、歐米の美術館のコレクションといふのを知らないから、どの程度の稀少なのかはよく分らない。

『写真大事典』でダゲレオタイプの記述を見ると、銀板写真の再生といふ項目があつて、再生の手順などが詳しく載つてゐる。しかし數を扱ふ人でないければ、ちよつと怖くて出來ないだらう。この本の元が作られたアメリカでは、こんな知識が一般向けの本にも載るくらゐは數が殘つてゐると分る。うろ覺えの孫引きになるけれど『写真装置』(雜誌)で、アメリカで年間三百萬枚作られた、とあつたのを讀んだことがある。その通りだとすると相當に普及してゐた、と言つていいか。

タルボットの『自然の鉛筆』を觀る。世界で最初の「四角いもの」である。畫像がかなり薄くなつてゐて、何とも果無いものだ。古いといつても二百年も經つてゐない。

歸りに蒼穹舍へ寄つたら國書刊行會の「日本寫眞史の至寶」の見本があつた。中を開けて見せてもらつた。仕上げは美しいが、印刷はこんなものなんだらうか(惡いといふわけではないが)。オリジナルと並べて比べないと何とも言へない。

H17-5-12

誰かに寫眞を撮つてもらつて、禮か愛想のつもりで「高いカメラは綺麗に寫りますねえ」などと言ふのは非常に失禮なことであるが、氣づいてゐない人は多い。

H17-5-7

豐橋驛にて

豐橋驛内愛知大學廣告電光看板の寫眞

愛知大學の廣告看板。卒業生である東松照明の學生時代の作品を使つたものが最近できたと聞き、用事のついでに見てきた。それだけ。

Kato