「四角いもの」覺書 - 平成十七年三月、四月

平成十七年四月

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限定本

たとへば「限定百部」と言つて本を賣れば、それは將來にわたつて「百部」だけしかその本は作られないことを意味する。そこに稀少性が生じて、その本の價値の一部となる。その價値に魅力を感じて、本を買ふ人もゐる。さう云ふ人がゐるからこそ「限定」の賣り文句が有效なのである。

「限定」と言つて作つたが、思ひのほか賣行が良かつた場合、發行者は増刷の誘惑にかられるだらう。しかし、だからと言つて、それをしてはいけないのである。もし、さうしたならば、最初の「限定」が嘘になる。「限定」であることに價値を感じて買つた人を騙したことになる。

細川文昌の『アノニマスケイプ』は、當初、百部限定本として賣られた。

細川文昌『アノニマスケイプ』の「百部限定本」と印刷された帶

しかし、その後、彼は百部増刷してゐる。苦々しく感じてゐたところに、さらに最近、編輯を新しくして値段を下げた同タイトルの本が作られたと知つて、驚いた。彼のサイト:平成写真文庫によれば千部も! 良い本だから豫想以上に評判になつたのだらう。優れた才能を持ちながら、まだ有名でない藝術家が、求める人へ作品を渡したい氣持ちは、察するにあまりある。だが、物を賣つて金を受取る人間として、また、何より表現者として、こんなことをしてはいけなかつた。

『日本写真史の至宝 全六巻、別巻一』(国書刊行会)

パンフレットが屆く。當初の豫定から隨分遲れたが、どうやらほんたうに出るらしい。出るなら報せてと、版元に頼んでおいたのを憶えてゐてくれたのだ。内容は:小石清『初夏神經』;福原信三『巴里とセーヌ』;『安井仲治寫眞作品集』;堀野正雄『カメラ・眼×鐵・構成』;木村伊兵衞『Japan through a Leica』;丹平寫眞倶樂部『光』;『「光畫」傑作集』。持つてゐるものはないので比較することはできないが、どこまで本當に原本に忠実に完全復刻されてゐるのか知りたいところだ。特に印刷がどうなのか。

監修者は飯沢耕太郎さんと金子隆一さんである。金子氏の言葉:

「写真集」というかたちは、それ自体がひとつのオリジナルな写真表現として自立するものである。それは写真家自身によって焼きつけられた一枚のオリジナル・プリントと同等の価値と独自の位置を持つということである。

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日本の古本屋」の檢索が速くなつたのは喜ばしい。

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Ralph Gibson : Tropical Drift

一月十五日に屆いた本は「不良」だつたが、完全な本が入手できた。開けてみれば、缺けてゐたところにはイラストが一つと寫眞圖版が一つ、それと文章が載つてゐた。著者のサインも入つてゐる。かたじけないやうな。金を出して買つたのだが。

平成十七年三月

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續き。内容は盛りだくさんだが、本氣で「すすめる」積りだつたら、肝腎なことが書かれてゐない氣がする。どこがどうと、うまく言へないが。

いくら他人がこの本が好いと言つても、自分が面白くなければ仕方がない。他人に言はれて好く思へてきたなんて、まあ、そんなものなんだが、そればかりでは詰らないだらう。また、かうして雜誌で持ち上げられてゐる古い本は、かへつて入手は容易ではあるが、値段はスゴイことになつてゐる。一册手に入れただけで息切れしかねない。

まづは近所の圖書館へ行くことをすすめる。特に地方では、寫眞集がいちばん揃つてゐるのは公立の圖書館である。そして何でもいいから、借りられるだけ借りて二週間手元に置く。それをとにかく毎日眺める。分らなくても、面白くなくても、とにかく眺める。一度に五册なら月に十册で、一年で百二十册を目にすることになるだらう。足りなければ隣町の圖書館も使へば良い。その内、一册でも(一枚でも)感ずるものがあれば、それを絲口にして本を探せる。その一册をまづ買ふ、といふのも正しい。

買ふと言つても都會を除けば、近所の本屋に目指す寫眞集はたぶん無い。大きな町の大きな本屋へ行くしかない。だが大書店といつても、まだ數は限られてゐるのである。五百部しか作られなかつた本を買ふには、專門店で探すことになる。

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STUDIO VOICE 2005年4月號『写真集中毒のススメ』

Man Ray ist さんで言及された話題が續いてしまふのは、それを讀んで氣になり出したから。影響されやすい。

かなり前からこの雜誌は寫眞集の特集を時々やつてゐて、それが田舍町の本屋にも並ぶのは不思議な感じもする。これがとりあげるやうな本は一册たりとも置かれてゐない本屋である。ガイドブックとはそんなもので、海外旅行へ行く人の數よりも、旅行案内が多く賣れるのと同じか。

海外取材をよくするのが偉いところで、Martin Parr の家まで行つてインタヴューをしてゐる。彼が日本へ來ては寫眞集を買つて行くとは、話に聞いてゐた。ここには、東松照明や森山大道や川田喜久治を手にして、莞爾としてゐる插繪寫眞まで載つてゐる。手にした本が小さく見えるのだから、やはりデカイ人なんだらうな。一應言ふと、Martin Parr 自身が、數多の優れた寫眞集の著者である。

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『荒川修作を解読する』展(名古屋市美術館)

一昨年くらゐに荒川修作の「養老天命反転地」で遊んだことがある。これが頗る面白かつたのでいくらか期待。繪(またはオブジェ)の横にそれぞれ解説書が置いてあつて、それに「解讀結果」が書いてある。それを見て自分の解釋と比べてみよ、といふ遣り方。これはなかなか大變、いつもは説明書を讀まないはうだから。繪を構成する要素を採り上げては「何々は何々を示してゐる」といちいち書いてあるが、結局、何でさうなるのかは殆ど分らなかつた。これは私の力不足なのだらう。ところで、繪の中に言葉が書いてあるが、それがなぜ英語ばかりなのかな(解説に譯がある)。どこにも説明がないが。さういふことは氣にしないことになつてゐる、で良いか。

地下の常設展に河原温の「日付」の繪やら、「I GOT UP AT x:xx AM」と印刷された繪葉書。何度も見てゐるが、これらも、「英語だな」と思つて、理解しようとする氣持ちがそこで足踏みしてしまふ。

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『先間康博 写真室』(アートドラッグセンター)

犬山のここは二度目。柿、林檎、蜜柑がたわわに實る果樹園を大判カメラで撮影したもの。その場所の光や空氣がよく寫されてゐる。何枚見ても印象が變ることが少くて、淡々としてゐる。

『先間康博 写真室』會場風景

歸りに途中下車して繪葉書のある古本屋。ここは目録で註文したり、即賣會での出展の折に買つたことは何度かあるが、行くのは初めてだつた。

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去年豐作だつたA圖書館へ「除籍本」を貰ひに行くが、今年は不作である。だいたい本の數がまるで無い。去年が特別だつたのか。無いのだが、とりあへず手に取つて袋に入れてしまふ。無駄なことをしてゐるな、と感じる。

去年と同じやうに古本屋へ行く。店内が程好く薄暗く、ひんやりしてゐる。氣分が落ちつく。これといつた本は見つけられなかつたが、來て好かつたと思ふ。Anton Stankowski が千五百圓。安いかと思つたが今、調べたらありふれた本だつた。實驗的な作品における構成力と、スナップショットやポートレイトでの生氣。なるほど安井仲治と同時代。

他に緒方秀美『氷』(光琳社出版、平成十一年)が三百圓。森山大道の影響が一目瞭然の寫眞。ただし恰好良い寫眞が選んであるといふ感じがあつて、それが違ふ。本家には「何でこんなもんを」と言ひたくなるやうな、格好惡い物が混ざつてゐる。それは兎も角も今に至るまでこの手が非常に多いのだが、別に誰の作品だらうがそれなりの質ならば差別することはないのである。藝術は何だつてさうかもしれないが、とりわけ寫眞はさう云ふ物なのである。森山だつて、安井仲治だつて。

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先間康博さんの寫眞展が犬山の「アートドラッグセンター」で今日から開かれてゐる。金土日曜日の午後一時から八時。五月一日まで。

Kato