「四角いもの」覺書 - 平成十六年十二月

平成十六年十二月

H16-12-31

繪葉書の袋だけ

今年一月三十日古繪葉書が袋附きで賣られることは多いが、袋だけで賣られてゐるのは見た事がないと書いたが、最近それを何度か見た。これは袋だけが保存されてゐたのではなく、古繪葉書を賣る人が袋から中味を出してばら賣りした結果、袋だけが餘るので、それが出てくるのだ。こんなことをするのは、揃ひよりも、分けたはうが合計では高く賣れるからである。これは或る種の商品では法則みたいなものであるが、生田誠『2005日本絵葉書カタログ』には次のやうに書いてある。(「風景絵葉書」の項)

時代がたつにつれ、大都市や著名な観光地では、数枚から数十枚の絵葉書をセットにして発売されることが多くなり、橋や建物などにしぼったセットなども登場する。こうした絵葉書は、これまでセットで一括して市販されていることが多かったが、個別のアイテムを集めるコレクターも多く、そのニーズに合わせ、最近ではバラで売られるようになってきた。絵葉書は1枚、1枚で評価などが異なるため、今後はこの傾向が進んでいくと思う。

買ふはうにとつても都合が良いのである。不要な物に資金を割くことなく欲しい物だけを集めたいのである。或るテーマ(たいていは場所や行事)の元に何枚がまとめて世に出た後に、それがばらされて、コレクターたちそれぞれの新たなテーマで再編輯されるといふことになる。そもそも繪葉書とは一枚づつが時と相手を違へて、切手を貼られ擴散していくものだから、未使用でそのまま揃つてゐるといふのも特殊な状態かもしれない。

「繪葉書の袋だけ」のコレクションもありうるだらう。

反動

それにしても關心がさらに繪葉書へ向つた一年であつた。作者の名前にこだはり、振りまはされながら、寫眞を觀てきたことへの反動か。

H16-12-27

石田千帆『夢日記』(窓社、平成十七年)

十一月十九日に少し書いた、石田千帆さんの本が窓社から出た。發行日が來年一月で、まだ書店へは出まはつてゐないさうだが、著者から直接購入した。

自分の夢からインスピレーションを受けたといふ演出寫眞なのだが、道具立てに陳腐なところがいくらかある。階段に關節人形をばらして置いたり、セーラー服が眼帶をしてゐたり、「どろろんエンマくん」みたいな帽子を裸の女がかぶつてゐたり、干涸びた動物が横たはつてゐたりする。しかし、センスが良いのだらう。安つぽくなく、綺麗だ。何より好いのが、モデルたちが名演をしてゐることである。たぶん普通の人たちだらうが、妖しげな雰圍氣のなかでその氣になつてゐる。不健康な小道具に圍まれつつ、樂しさうである。ある情景を描いてゐる、といふよりも、肖像寫眞として觀たはうが理解しやすい。彼らが美しく輝いてゐるのだから大成功である。人形が主人公の作品も多いが、それも同じことだ。

寫眞に添へられた「夢日記」は、いかにも夢らしいとしか言ひやうがない。實際この人はかういふ夢を見てゐるのだらうな、と。寫眞から受ける印象と同じで朗らかなのである。心にすこし餘裕をもつて讀めば、面白いと感じられる。

殘念なことに、本の編輯、デザインがいただけない。なぜ「夢日記」の書體が一日毎に變へてあるのだらう。讀みにくい。レイアウトも亂雜に感じる。きつと何か意圖した結果だらうが、それが傳はつて來ない。

H16-12-22

目印つき

感じてゐる人は多いであらう話。日本の古本屋は登録されてゐる本の數は多いのだが、檢索の機能・性能が貧弱で使ひ辛い。夜になると遲くなるのは、意地惡をされてゐるやうな氣分になる。また、それぞれの本の説明を賣る人が書いておく欄はあるのだが、あまり活用されてゐないのは殘念である。

特に店ごとの登録商品の一覽表示及びその中だけでの檢索ができないのは明らかな不備で、こちらが面白くない以上に店にとつても損である。どうせ送料がかかるのだし、ついでにもう一つ何か欲しい、と思ふ人はいくらでもゐる筈である。(ひよつとすると出來るのかもしれないが、やり方が分らないのだから出來ないに等しい)

その不備を補ふために、自分が出してゐる商品(繪葉書)の書名の中に、ある文字を目印に仕込んだ店がある。以前、貴店の商品の一覽を教へてくれと私が希望を言つたことがある店である。それから隨分たつて「繪葉書の後ろにこの字を付けたら弊店の商品が出て來ます」とメールで返事をして來たのである。やつてみると面白い。どんどん出てくる。

しかし個々の店がこんな手を使ふ前に、檢索の入力項目に店名を付けておくべきだ。「ラクテンふりま」や「やふおく」で素人にまじつて商賣してゐる場合か。

H16-12-15

昨日の續きといふほどでもないが、何でこんなことを思ひ出したかといへば、針を使はないホッチキスを貰つたからである。針こそ要らないが姿は件の物と同じだつたのである。面白がつていろいろ試してみたが、せいぜいコピー用紙で數枚を假りに綴ぢるだけの物だと判つた。

H16-12-14

ホッチキスと顯微鏡

他愛もない話。小學校へ入るか入らないかのころ。卓上で使ふ大型のホッチキスを顯微鏡と見まちがへたことがある。見まちがへるといふのは適當な言ひ方ではないかもしれない。ホッチキスといへば手に持つて使ふものしか知らなかつたし、顯微鏡のはうは實物を見たことはなかつた筈である。雜誌の廣告で見てゐたのだらう。平らな臺から斜め上に伸びた把手が、鏡筒に見えたのだ。こんなことは子供には日常茶飯のことで今なほ憶えてゐるのも妙だが、そのとき大きな聲で「あ、顯微鏡だ!」と叫んでしまつたのが、恥づかしかつたせゐである。但し、大人や子供、何人かそこにゐたのだが、別に笑はれたわけではない。

子供はありのままに物を見る、といふわけではなくて、物を見たときには少いながらも自分の知識や經驗と結びつけて理解しようとし、それを口に出したりするものだ。この例などは面白くも何ともないが、その知識や經驗が乏しいがゆゑに、ときとして詩的な想像が働いてゐるやうな印象を、大人は受ける。

H16-12-9

昨日はアサヒカメラの昭和十六年十二月號を、思ひ出して探してゐたが、つひに見つからず。たしか去年も探してゐたやうな。表紙が軍艦で中味もさすがに開戰前夜の緊張感がある、と言ひたいだけなのだが。

さういへば古本屋で買つた日以來見てゐない。

別の話。尾仲浩二さんが「matatabi写真文庫」といふものを作るさうだ。見本の表紙畫像を見たところ岩波寫眞文庫を模してゐる。

H16-12-5

メール便といふもの

某販賣サイトから音樂CDを買つたところ、發送連絡から一週間たつても品物が屆かない。手段は某運送業者による「メール便」である。問合せたところ、運送屋から連絡があり「郵便受にたしかに入れました」。これは困つたことになつたと思つたら「在庫があるから、もう一つ送ります」と、ただちに連絡があり一件落着。運送屋も今度は扉を敲いた。

店にしてみれば、「メール便」で送ることは承知して註文したのだから諦めろ、とも言へなくもない。しかし、それでは客が去つてしまふ。送料無料が謳ひ文句で方法が方法であるから、かうした「事故」はコストに織込済なのであらう。送料が高くつくのを避ける代りに、無駄どころか丸損になるのもやむを得ないのだ。さすがに見たところ、サイト上にこのことは明記されてゐないから、場合によりけりだらうが。

それにしても最初のモノは、どこへ行つたのだ? なんて言ふまでもないか、いや、言ふかひもない。

H16-12-1

可哀相な寫眞屋

保育園の運動會で、近所の寫眞屋が子供たちを撮り、それを一枚五十圓で父兄に賣つたさうな。驚くなかれ、その値を「高い」と口にする人が多かつたとか。サービス判とは言へ、勿論プロが撮つた立派な寫眞である。かはいさうな寫眞屋さん!

寫眞を前にすると、かくも人々は不遜になる。念のために言へば一枚五十圓では彼の技術に對する報酬はゼロに等しい。

十二月一日の闇黒日記を讀んで思ひ出した話。

Kato