「四角いもの」覺書 - 平成十六年十月、十一月

平成十六年十一月

H16-11-28

under the supervision

Neal Slavin : Portugal (Lustrum Press, 1971) の終りにこんな文章が載つてゐる。

THIS BOOK WAS EDITED AND DESIGNED BY NEAL SLAVIN AND RALPH GIBSON AND PRINTED IN DUOTONE BY CUSTOM OFFSET IN NEW YORK CITY UNDER THE SUPERVISION OF THE PHOTOGRAPHER

printed under the supervision of the photographer とは、オリジナル・プリントを販賣するときの決り文句だらう。それを自分で燒くのでなく、他の專門家に依頼した場合、さうでなればオリジナル・プリントとは呼べないからである。しかしそれが本の印刷に對して明記してあるのは珍しいのではないだらうか。

明記せずとも、なされる印刷が自分の意圖を傳へるのに適切であるか、進んで監督し、責任を取らうとしてあたりまへだ。しかし實際には、他人任せで、缺陷のある印刷で本を出して平氣な寫眞家もゐる。そんな寫眞家が、素人や學生相手に寫眞の燒き方などを指導してゐるのは片腹痛い。

H16-11-27

家のなかで團子蟲を見かける。今までも紙魚なら時々ゐたが、いよいよこの元植物の無秩序は命を育む森へと返るのか。最近、散歩のついでに團栗や落葉を拾つて歸ることが何度かあつた。それに卵などがついてゐたのだらう。本以上に古繪葉書には蟲喰ひが多い。銀いろに汚れてゐることもある。抵抗を感じなくなつてきた。

H16-11-23

インターネットで、近場に未知の古本屋を發見。電話帳にも載つてゐない。サイトの更新も滯つてゐるやうだ。そこに掲載の電話番號で問合せたら、やはり「最近はやつてゐないのですよ」。しかし行けば在庫を見せて貰へるとのことなので、早速出掛ける。一時間掛けて行つたら、普通の家の庭に小さなプレハブの書庫があるだけだつた。目録で見當はつけてゐたが、なかなかの收穫。値段は普通くらゐだが、状態の良い繪葉書が多い。何年ここに眠つてゐたのか。繪葉書はそれほど賣れないとか。結構なオマケまで附けてくれて滿足。

けふは色々おもしろいことがあつたが、いつたん忘れて、いづれ思ひ出したら書く。

H16-11-22

かうしてゐても、死ぬまで再び開くこともないだらう本が並んでゐるのが見える。その中には、いまだかつて開いたことがない物もちらほら。場所の無駄か。しかし、だからこそ、せめて背表紙を日々眺めてゐるのだ、とも言へなくもない。

本の内で最も頻繁に見られるのは背表紙である。著者は、そこに一番言ひたいことを記しておくと良いだらう。寫眞集なら、いちばん見て欲しい一枚をそこに。

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夢日記

他人の夢の話ならたいてい退屈で、それを基にした「作品」もさうさう面白いものではない。夏目漱石なら感心した憶えがあるけれど、黒澤明には呆れた。夢だから馬鹿馬鹿しくてあたりまへで、文句を言ふ氣も起らない。石田さんのはどうだらうか。雰圍氣は惡くない。やつてゐる人たちも樂しさうだ。これは個人的な作品にしては手間がかかつてゐる。作品を作ることが何より強烈な體驗で、その夢をまた見てしまふのではないのか。それをまた作品にしてしまふのか。

隨分前だが、夢日記をつけた時期がある。普通の日記では一週間と續かないのに、これは細かい字で帳面一册と半分續いた。慣れると簡單である。一段落つき次第、小さく電燈を點けて、枕元の帳面と鉛筆を手探りで取り、ひたすら「見た」ことを書くだけである。頭を枕から離さないのがコツである。腦を半分眠つた状態にしておくのだ。すると思ひ出さうとせずとも文字は列なつてゆく。ほとんど自動筆記である。すぐに續きを見ることもできる。

最初は面白がつてゐたが結局飽きてしまつた。晝間あつたことが細かい斷片になつて、順番を變へてつながつてゐるだけである。慣れるにつれて、抑壓が薄れたのか欲望がストレートにあらはれる。つまりはエログロである。血みどろである。極彩色である。「解釋」をするまでもない。わざわざ書き記すまでもない。

H16-11-16

松濤美術館へ日曜日までの安井仲治を見に行かうと思つてゐたが、名古屋市美術館で正月からやると知つて取り止める。

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Ralph Gibson and Andy Summers : Light Strings - Impressions of the Guitar (Chronicle Books, 2004)

ラルフ・ギブソンの新刊は、ギタリストのアンディ・サマーズとの共著。ギターをテーマに、ギブソンの寫眞とサマーズの文章との組合せ。カメラはギターをひたすらオブジェとしてとらへて、細部を舐めるやうに眺めてゐる。その態度は殆どフェティシズムである。女のヌードと組合せてゐるものさへある。版元の廣告を見ると「すべてのギター演奏家向けの本」とある。私はギターには疎いが、彼らがこれだけで滿足できるのかは疑問である。樂器が最も美しいのは演奏者によつて操られてゐる時である。膝の上に抱かれて、絃が押へられ、はじかれて振動する樣子も欲しいが、それは極く少い。ギブソンは寫眞機より先にギターを手にした人であり、そんなことも知らないわけはないから、意圖したことなのである。茶道具みたいな物か。

ギブソンの演奏は、彼の創作活動をテーマとしたビデオ、Ralph Gibson : Photographer / Book Artist で聽ける。また、アンディー・サマーズは寫眞をよく撮る人であり、作品は彼のサイトで見られる。

H16-11-8

dance card

(十一月二日の續き)

dance card
formerly, a card holding the names of a woman's prospective partners at a formal dance.
a list of activities that one is involved in.

どのみち實物を見たことはないが、踊り方が描いてある札、ではないらしい。

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古書會館へ。目ぼしいものはなく繪葉書だけ。その後鶴舞の古本屋を順にのぞく。『近藤龍夫が記録した昭和』(岐阜新聞社、平成十五年)が新品同樣で定價の半額。この本のことは知らなかつた。近藤は大正五年名古屋生れ、後に岐阜に轉居。この本は昭和十年代から三十年代の岐阜及び名古屋で撮影されてゐる。街の樣子、遊んだり働いたりする子供たち、學生の軍事教練や市民の防火演習など。ことに中判カメラで撮影された寫眞は鮮明で、奧行きがある。このところ薄汚れた繪葉書ばかり見てゐたから、目が覺めるやうだ。達人が寫した原板さへあれば、ここまでその瞬間が再現されるのである。多人數を均整のとれた構圖でとらへて、しかも動きが感じられる。

他に B&W といふ洋雜誌。寫眞蒐集家としてのエルトン・ジョンの特集。1991年から始めたさうだが、大金持が本氣になると十年も經たずに(この號は2000年)、ここまで行くのだな。少くともここに見えるものは素晴しい物ばかり。マン・レイをはじめとした歴史的なシュルレアリスムの作品から、メイプルソープ。評價が定まつた高價な物ばかりでなく、比較的安い値段の新進の作品も集めてゐるさうだ。偉大な人。

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覆刻繪葉書

十月一日の續き。葉書で應募した『2005日本絵葉書カタログ』出版記念の景品、覆刻美人繪葉書五枚が屆く。先着二百名に間に合つた。デザインの優れたものを選んである。インクジェット・プリンターで刷つたやうだ。上等である。本の感想を書き送つた甲斐もあつた。

どんなことを書いたかといふと:コレクションとはそれを集める人の好みや考へが表れるもので、そこに新たな價値が生れるものである。基本的、全般的な説明に加へて、著者である生田誠さんの個人的な繪葉書との附き合ひ方がもつと述べられても良いのではないか。

書かなかつたが要望として:紙など材質の種類や、印刷の方法(見分け方)に關する解説が讀みたい。

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John Gossage : Dance Card Vol.2 (Onestar Press, 2003)

二十八日の續き。巴里から屆く。速い。さすが送料八ユーロである。初版限定二百五十部の内 111 番目で、何だか嬉しい。

タイトルが意味不明で、表紙の畫像しかみてゐなかつたのでどんな本かも分らなかつた。その表紙も古い本から複寫したらしき、男女が踊るイラストである。蓋を開けてみれば、副題に a field guide to works, 1962-2002 とあり、ゴセジの作品の選集であつた。後半の作品は、既に寫眞集として發表されてゐるもののダイジェストであり私も知つてゐたが、前半は殆ど初めての作品だつた。ポートレイトが多い。白人や黒人、若者や老人、服を着てゐたり裸だつたり。中はモノクロで印刷が粗い。普通に見てゐても網點が數へられさうなくらゐだ。後半の特に、風景寫眞は週刊誌か新聞の插繪寫眞の「現場の樣子」めいてくる。

ゴセジのやり方として、寫眞と文字とを組合せることがよくある。代替物として言葉だけで「寫眞」を表現しようとする試みさへある。寫眞自體もよく分らないものが多いのに、それらが斷片になつて、繼接ぎされ、さらに難解である。本に自分の筆蹟を入れることの多い人で、何百部かに手書きで書き加へてあることもある。この本にも、ボールペンで短い文句が書込まれた附箋が貼つてある。それが突出して生々しい。Make the correction yourself. とあるけれど、これだけでは何とでもとれるわけで、よく分らない。

ところで、日本で唯一よく知られてゐるゴセジの作品は、ダイアン・アーバスのポートレイトである。セントラル・パークのベンチに坐るアーバスの姿は、彼女の人となりをうかがはせる代表的な「イメージ」であり、言及されることもしばしばだ。これは、パトリシア・ボズワースによる、アーバスの評傳(邦題『炎のごとく』)に掲載されてゐる。この本を見て言つてゐる人が殆どなのだらう(見ないで受賣を言ふ人もゐる)。しかし、その寫眞を撮つた寫眞家、ゴセジを語る人がゐないのは、いつもの事である。それどころか、彼女の首に、マミヤ製の二眼レフカメラが掛けられてゐるのが氣になる人が一番多いのである。けふ屆いたこの本にアーバスは出て來ないが、どこかで見たやうな顏が手持無沙汰にジュークボックスを眺めてゐて、これはルイス・ボルツだ。

Onestar Press は、二千年に設立された「アーティスト・ブック」の版元。本はペーパーバックの規格を決め、それを各著者が自由に編輯する、といふスタイル。他にDVDや限定の刷り物などを扱ふ。各發行部数が少いこともあり、日本には殆ど入つて來てゐないやうだ。

どうでもいいことだが、星一つを社章にしてゐるといへば、Lustrum Press とサッポロビール。

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保養舘屋内ノ一部

繪葉書『城崎温泉塲保養舘屋内ノ一部』

城崎温泉の繪葉書。宿の二階である。縁側といふか、廊下なのだらうが、狹い。そこで新聞を讀むのはともかく、わざわざ碁を打つてゐる。背中で相手を隱さないやうに斜めになつたはいいが、敷居の上である。居心地は惡からう。そして、それを表から見上げる爺さんに味がある。何より氣になるのが、畫面内で下にある白い陶器である。最近めつきり見なくなつた例の物らしい。私は、かう云ふものは除けておくはうがいいと思ふが。

擴大圖「男三人」 擴大圖「痰壺」

圍碁をしてゐるのに、手元に碁笥が見あたらないのも氣になる。

平成十六年十月

H16-10-28

戲言

古書即賣會の目録が屆く。いつも繪葉書を出す某店の頁が樂しみなのだが、それが殆ど載つてゐなくてがつかり。あれだけ買へば無くなるか。いや、まさか。

檢索で辿着いた佛蘭西のアートブック專門出版社に頗る惹かれる物を發見。限定二百五十部では日本にはまはつて來ない。外人は苦手だから氣は進まないが、とにかく値段を邦貨に直して考へようと目下フランは何圓なのかとあちこち探してしまふ。草臥れた末に今はユーロと思ひ出す。やはり自分には向かない事だつた。

H16-10-24

明治二十四年の濃尾地震の記録寫眞が見られる。撮影者は記されてゐないが、驚くほどよく撮れてゐる。記録また學術資料以上のものさへ感じる迫力である。愛知縣は昭和十九年には東南海地震、續く二十年には三河地震が起つてゐる。こちらは體驗した人が周りにいくらでもゐて、訊けば「大勢死んだよ」。しかしその割に備へが出來てゐる感じがしないのは、東京に住む人もさうなのと同じ。

H16-10-21

山本昌男さんの講演會へ行く。彼が卒業した中學校で、生徒を對象にしたものだから内容はいくらか「教育的」である。地元の一般の人たちと一緒に、詰襟・セーラー服の横で聽く。彼の寫眞のファンとしてゐたのはひよつとすると私だけだつたか。好きなことをもうそれしかないからとやつてゐたら、ある日外國人が作品を買ひに來てくれて、今では自分の作品をエルトン・ジョンがコレクションしてくれてゐる(これはたしかに自慢できる)。ヨーロッパの町のデザインについて、寫眞藝術の扱はれ方。そして自作の解説として「石ころを撮つて、それが石ころ以外の物に見えれば、作品として成功」と。もう少し寫眞のこと作品のことを中心にして欲しかつたが、それではたぶん浮世離れした話になつてしまふ(さう云ふ作風なのだ)。校長が前置で「進路を考へる參考に」と斷つた以上、さうも行かないだらう。

生徒達の行儀がよかつたのに感心した。

H16-10-13

石原輝雄『マン・レイになってしまった人』(銀紙書房、昭和五十八年)をやつと入手。人を通して人を知る喜び。

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後拂ひの保管料

手持ちの音樂CDからコンピュータへ曲を移して聽くのが習慣になつてきた。少しづつ聽くにはこちらのはうが都合が良い。買つた切りで殆ど聽いてゐないものもあつて、思はぬ「掘出物」が結構、樂しめたりする。ちなみに携帶用の保存・再生機(iPod等)には興味がない。イヤホンが苦手なのだ。頭が痛くなる。

「圓いもの」ならぬ「四角いもの」では、かうは行かない。繪葉書くらゐならなんとかなるが、本を丸ごと複寫する手間は厖大である。そもそも、それは畫像だのデータだのではなく、手に觸れることができる「物」であるのだ。ハード・ディスクに押し込められるものではない。しかしロクに目を通してゐないままの物が、ただ積み上つて行くのは何とも勿體ない。これではどこかの倉庫にあるのと同じことだ。いつそ買ふまでもなく、本屋の本は自分の物と思つたはうが場所の節約である。どうしても見たくなつたときは、「保管料」を後拂ひして手に取るのである。

と、ここまできて、實際自分の本を預かつてもらふといくらかかるか氣になつた。段ボール箱單位で月二百圓くらゐからのやうだ。遠い所になるから預けつ放しになるが、一年ごとに入替へれば良いかもしれない。空調が利いてゐるのも好い。しかし場所が空いたら空いただけ物が増えるおそれがある。

H16-10-6

目に箸

『留置中の男、はしで自分の両目刺す』ZAKZAK 十月六日より:

富津署によると、男は、留置係の警官が朝食の準備をしている最中、いきなり割りばしを持って地面に立て、頭を割りばしに打ち付けるような形で、両目に刺した。

男は先月下旬、詐欺容疑で逮捕されていた。病院に搬送される際、「自分がいやになった」などと話していたという。

箸は二本、目は二つだから、ちやうど合ふ。ところで文中の地面は床のことか。

H16-10-2

リチャード・アベドン死去、八十一。一部で宇多田ヒカルの名前を附けて報じられてゐるのは、いつものパターンである。さう附けなければ分からない人にとつては、どうでも良いことなのだが。CDのジャケット寫眞を撮つたことがあるさうで、それは知らなかつた。

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生田誠 編・著『2005日本絵葉書カタログ』(里文出版

日本初! 絵葉書収集カタログと帶にあるが、載つてゐる圖版は約四百點で、ハンドブック、便覽とでも呼ぶのが適當な本である。時代を戰前までと區切つたとしても、發行された繪葉書の種類はほとんど無限にある(この本では數億種類とあるが)。古繪葉書趣味において同じコレクションは二つとありえないし、それが完成することもない。よほど狹く範圍を限定しなければ、網羅に近いカタログは不可能である。この本では、目下市場において人氣のある三十八のジャンルについて概觀ともに、大雜把な評價(額)を示してゐる。かうした評價をつけることができるくらゐ、古繪葉書が賣り買ひされてゐるのである。

Kato