「四角いもの」覺書 - 平成十六年六月、七月

平成十六年七月

H16-7-26

記録としての繪葉書

岩瀬文庫のパンフレットを見てゐたら、財団法人時代の岩瀬文庫(岩瀬文庫絵葉書より)として、戰前の岩瀬文庫の全景、閲覽室などの寫眞が載つてゐた。岩瀬文庫は明治四十一年に岩瀬彌助によつて私設圖書館として開館し、昭和六年に財團法人化、昭和三十年に西尾市立となつた歴史を持つのである。

さらに『岩瀬文庫便り』には、常設展示室の一角にかつての岩瀬文庫閲覧室の雰囲気を実際に味わってもらうことができるようにと、当時の絵葉書を基に閲覧室復元コーナーが設けられていますとある。ちなみに、この「コーナー」は實際に見た。なるほどそれらしい感じだつた。

いづれにせよ、元となつた寫眞は殘つてゐないが、繪葉書は殘つてゐるのである。この場合それを誰が持つてゐたものかは知らないが、一般的に、それなりの數が刷られて別々の場所に散らばる繪葉書は、後々まで殘りやすかつたのである。試しに探してみたら、インターネット上の古本屋の目録で岩瀬文庫繪葉書が賣られてゐるのを見つけることができた。

H16-7-25

波と岬

船に乘る。雙眼鏡を持つて行つたのは、海の上では船の周りを除けば、見るもの全てが小さくなつてしまふからだ。海上保安廳の巡視船であるからさう搖れるものではないが、長々と覗けるものではない。たまに逆向きにしてみるのは、いつもやることであるが、船の上では初めてだつたか。すると暗い筒の奧、圓い視野に船が作る波と、かなたの岬が同時に入る。それが奥行きを伴つて見えるのだ。壮大なものが小さな丸の中に收まつてしまつた。そのまま寫眞にしたくなるやうな眺めだつた。

H16-7-24

いたはりと敬意

西尾市岩瀬文庫で「本に觸れる」體驗講座を受講。ここは十八歳以上なら誰でも閲覽できるのだが、貴重な本と聞いてしり込みするのか、實際手に取つてみる人は多くないさうである。そこで司書が基本的な和本(和綴本、卷子本、疊物)の扱ひ方を教へる、といふ内容。聽いてみればもつともなことが多かつたが、やはり心得もなく觸るのは怖いことだ。とにかく古い本だ。世界にこれ一册だけとか、二百年三百年前の本とか聽くとなほさら。講師が強調したのは、本にはいたわりと敬意をもって接しましょうといふことである。いい言葉である。大きく書いて張り出しておきたい場所が日本中あちこちにある。

レプリカで練習した後、本物を手に取る。初心者といふことで「ビジュアル本」を用意して下さつてゐた。以下素人の感想。文政二年に作成された人體解剖圖の卷子本の、江戸後期の寫し。解剖は慣れた人がやつたのだらう。繪も既に手本となるものを見たことがある人の描き方。モデルは處刑された人らしい。首から血が滴つてゐる。髮の一本一本、血管や腦味噌の皺の一本一本が細かく描かれてゐる。次に東海道の繪地圖。元は卷子だつたのを折本に仕立たさうだが、延々と街道が續き、宿場の名前や山や川が描き込まれてゐる。それが五册に亙つてゐる。繊細な線ではあるが、かなり大ざつぱな繪。菱川師宣作とある。山も川も町並・松並木もほとんど記號と化してゐるが、今で言ふ地圖の正確さは無い。上下に餘白が大きく、嵩の割に役立つことも少ないやうな。紙の色は綺麗なままで、そこに全體に程好く(?)蟲食ひのあと。一種のコンセプチュアル・アートに見えてくる。

胸像の寫眞

歸りに隣にあつた古本屋をのぞく。『風流写真川柳集』なる本を見つけたが、艶笑川柳にヌード寫眞が組合せてあるだけだつた。川柳の内容にそつた馬鹿馬鹿しい演出寫眞だが、撮影はそれなりに上等である。寫眞家の名前は書かれてゐない。

創元社から出た現代日本写真全集が何册かある。その内の「風景作品集」と「リアリズム作品集」を選ぶ。監修者は渡辺勉と重森弘淹。昭和33年發行なのだが、その前數年の内から作品が選ばれてゐる。「リアリズム」といつても「社會(主義)的リアリズム」とは限らず、「風景」といつてもかなり抽象性の強いものが多い。薄手のB5B4版で手に取つて迫力がある。奈良原一高、東松照明とまだ世に出て日の淺い人もよく取上げてゐる。

これらは初めて見たのだが、調べてみると、いづれも珍しい本ではないやうだ。

H16-7-19

マン・レイ展「私は謎だ。」(岡崎市美術博物館

昨日行つた。寫眞のみならずオブジェ、彫刻、油彩、リトグラフ、出版物など、廣いジャンルの作品が集められてゐた。會場は、さながら迷路のやうで、いやでも行つたり來たりする作りである。灰いろの壁に、適切な照明(暗過ぎなくて助かる)で、雰圍氣がよろしい。目が疲れない。岡崎でマン・レイである。さう混むものではない。會期の最初の日曜日だが、ゆつくり見られた。

午後から展覽會の監修者であり、カタログの執筆者でもある、巖谷國士さんの講演を聽く。展覽會の構成、カタログのこと。さらに巖谷さんがフランスで撮影してきたスライドを元にマン・レイの生涯と作品とを辿る。彼が見た風景、建築や自然が作品にどう表れてゐるか。彼の韜晦癖とは裏腹に、作品には自傳的な要素が少しづつ折り込まれてゐること。そして、映畫作家としてのマン・レイが映畫史上でも特筆すべき存在であること。映畫『さいころ城の秘密』を、現在の「城」の様子の報告を交へて解説。と、たいへんな充實ぶりで、三時間近いものだつた。ひとの話をこんなに長く、厭きずに聽けたのも、私にしては珍しい。椅子の坐り心地もよかつたが、話がうまい、スライドもいい。

展覽會のカタログ(二千三百圓)は、卷末に「マン・レイ事典」もあつて、とにかく分り易い。とかく、カタログ(圖録)の類は、通り一遍の解説だつたり言葉づかひが難解に過ぎたりするが、これは讀んで理解できて面白い。巖谷さんそして學藝員諸氏の、立派な著書になつてゐる。

マン・レイは寫眞家として壓倒的な存在である。前例のない(少ない)ことを初めてして、ひとり洗練の極に達した人である。それを含んで、より大きな藝術家として理解する切掛けとなりさうな展覽會だつた。正直言ふと、オブジェはともかく、繪のはうは、それほど良いとは感じなかつたので、これから理解を深めたい、といふことで。

岡崎市美術博物館は緑深い丘の上にあり、眺めが素晴しい。しかし驛から遠い。歩ける距離ではない。もし自分の車を使はず行くなら、名鉄の東岡崎驛からバスかタクシーとなる(JR岡崎驛は少し遠くなる)。九月五日まで。ここの後は埼玉、山梨、徳島と巡る。

H16-7-18

本屋の終り、始り(續き)

基本的に大手の書店に關しては、あまり期待してゐない。商品の管理が惡いところが多いからだ。名古屋を例にとる。前も書いたが高島屋の上にある三省堂は常軌を逸してゐる。近寄りたくもない。矢場町のパルコも一時、酷かつた。他人の本だから目の前であんなことをされても平氣でゐられるのだらう。本屋の店員は、本に愛情があつては務まりさうもない。初めから買ふ氣のないやつは觸るなと言ひたいし、平氣で觸らせる店もどうかしてゐるのだ。疵物にしたあげく返本。それが「破棄」されなければ、註文して取寄せて金を拂つた人がババを引く。一圓の値引きもなしに、だ。立讀みしたいやつは「コンビニ」へ行け。あそこは強盜除けに大歡迎ださうだぞ。

寫眞集など大きい本は、立讀みには全く不向きなのだ。うつかりすると、その重みだけで、潰れる、破れる、形が歪む。あれは、大きさのある机の上で開くものだ。片手に鞄を持つて、もう一方の手で立つたまま扱へるものではない。鞄を本の上に置くのは論外。以下は版元に望む。賣り物は一册づつ檢品した後、ビニール袋に入れて封をするが良い。見本は別に用意すれば良いだらう。さもなくば、題名と著者名と表紙だけで買はせる努力をせよ。買ふはうもそれで買へるやうになれ。

H16-7-17

本屋の終り、始り

青山ブックセンターが倒産。私は行つた事がある、買つた事がある、といふ程度。あれだけの本があつた場所が準備もなく(?)一日にしてなくなるのだから、いろいろな事があるだらう。ここへ納品してゐる月曜社ウラゲツ☆ブログより:

小社の限定版や美術書はどんな扱いをされたのだろう。一気呵成の作業だから、丁寧に梱包するのは難しいでしょう。仮に、幸いにも返品になったとして、改装できるかどうか。改装できなければ、不良本、つまり、決算時に破棄処分にせざるをえません。

溜息がでるやうな光景が展開されたのだらうなあ。少部數しか發行されない本が、この店へはかなりの數納められたといふ。これで、いくらか稀少價値が上る、と言つては怒られるな。

別の話。名驛のビックカメラの六階に、ヴィレッジ ヴァンガードが開いてゐるのを最近「發見」した。何度も行つてゐるのに氣がつかなかつた。五階から上るためのエスカレーターが全く目立たないところにあつたのだ。寫眞集はかなり置いてある。蒼穹舎の本が置いてあるのだから、なるほどマニアックである。ここは雜貨と本とが混在して並べられてゐるのが特徴なのだが、どうも落ちつかない。本が雜貨の一つとして扱はれてゐるといふべきか。然しこの本屋、かなり癖があるのに、名古屋だけでも既にいくつもある。大丈夫か。

別の話。岡崎市美術博物館でマン・レイ展が始つた。明日行く積り。

H16-7-8

奈良原一高展(東京都写真美術館)

發作的に思ひ立つて、行つた。「たかが寫眞」を觀るために新幹線に乘るのは躊躇つてしまふのだが、往復の交通費も全く惜しくない内容だつた。感じること、分つたことは多いが、暑くて。

新宿へまはつてギャラリーを何軒か觀る。その内の一つで、そこの出した雜誌を購入したのだけれど、歸りのこだま號のなかで袋から出したら「sample」のシールが貼つてある。汗のついた手で本に觸るのが嫌で、口で指圖して取つてもらつたのだが、かへつてまづかつたか。交換してもらはう。

H16-7-5

「大道」の値打

一昨日パルコで見たのだが、ミスター・チルドレン(しかし、どうにかならんか、この名前)を森山大道が撮つた、なる雜誌が積まれてゐた。宇多田ヒカルに續いてのことか。森山氏といへば、彼はかつて北島三郎を撮つた。三波春夫は『にっぽん劇場写真帖』の中で強烈に微笑んでゐる。藤圭子といふのもあつた。歌謡曲には縁があるのである。

逆に撮られるスターの側からみると、かつてとは違ひ、彼らは誰に撮られるかを商品價値の觀點から決めてゐる筈である。北島も三波も森山の名前なんぞ氣に留めなかつただらうが、宇多田、ミスチルは、「大道」の名(寫眞そのものも?)が自分に相應しいと値踏みしてゐるのだらう。百萬の桁でレコードを賣る彼らが、一般的にはマイナーなスター(百か千の桁で寫眞集を賣る!)にどんな價値を見出してゐるのか。

ひとつ言へることは「大道」には新鮮みがある。有名寫眞家である篠山、荒木、立木といつた人にとつては歌手・有名人を撮るのは當り前である。今さらキシンが・アラーキーが、では人目は引けない。

H16-7-4

施設もの

アサヒカメラ昭和四十五年八月號の座談會「話題の写真をめぐって」において、中村立行が、内藤正敏が撮つた精神病院の寫眞を褒めるついでにこんなことを言つてゐるのを見つけた。

ぼくは前からこういうものを "施設もの" といって(笑い)きらってきたんだが、これはなかなかいい。以前から流行みたいに、皆よく "施設もの" を撮りに行きましたよ。それが素材のめずらしさにおんぶしたようなものが多くてね。

「施設もの」とは言ひ得て妙である。兒童養護施設、特定の病名がつく療養施設、養老院などがその代表だらうか。精神病院、刑務所は閉鎖的なものの典型か。軍隊や修道院などもさうかもしれない。赤の他人同士が、或る程度、世間から距離を置き集團生活をしてゐる建物、場所である。流行みたいに、皆よくといふくらゐである。たしかに玉も石も例をあげれば切りがなささうだ。昨今は一時期ほどは撮られてゐない感じだが。これからは、その手を見たとき「施設もの、だな」と呟いてみるか。

H16-7-3

「犬」の救出

古書會館の即賣會へ出掛ける。入口前の百圓均一臺で、アサヒカメラ昭和四十六年三月號を見つける。森山大道の「三沢の犬」が世に出た最初である。最近三種類の本で表紙に使はれた、彼の代名詞のやうな作品だ。これこそある意味「オリジナル・プリント」なのである。しかし記念すべき一册もこれでは傷む一方である。臺のうへは既に大勢に引掻きまはされて狼藉たる有樣である。私はもう持つてゐるのだが救出しておいた。似たやうな場所へ移るだけか。

そこからパルコまで歩く。洋書が安いと案内葉書が來てゐたのだ。ところが種類が全然ない。こんな筈はないが、また別にやるのだらうか。ガッカリといふより、ホッとして新刊賣場へ。川内倫子『AILA』が大々的に賣られてゐた。相當な數が賣れるのだらうと思ふと、すぐには食指は動かない。これで無名の人の百部限定ならば。

H16-7-2

アンヌとペガッサ

このところいよいよ文字通り動きがとれなくなつて、堆積する「四角」を何とかしようしてゐた。地層の底から湧き出る挫折と恥の殘骸がいろいろ。何度か始末したつもりだつたが、今度こそは根絶やしにしたい。もう目的を持たないものしか置くまい、時々手にして眺めればそれで幸せになれるものだけ。

懷しい本を發掘。開けば、鏡臺へ向ひ梳る女と背後から迫る怪物、の寫眞。キャプションには、アンヌの部屋にあらわれたペガッサ星人とある。これはまだ字が讀めないころから氣に入つてゐた一枚。ウルトラ警備隊隊員は例の制服を着たままではあるが、私室で寛いでゐる。鏡臺の脇には人形なども見られる。日常性のある背景のせゐで「宇宙人」が生々しく感じられたからだらう。それにしても、久しぶりに見ると何やら、すこぶる………。これは殘しておく。

平成十六年六月

H16-6-23

閑話

指先も汗ばむ季節である。本が汚れるのが嫌でウェットティッシュで拭ふが、乾く内にまた脂が浮いてくる。この浮きたてが、かへつて紙に移りやすかつたりする。汗が出ないのは困るわけでこれは仕方がない。それより蚊に注意しなければならない。まさか本で叩き潰すことはしないが、知らない内に挾んでしまふことがある。そいつが血を吸つた後だと最惡である。いづれにせよ冷房を入れたら解決することだが、なかなかさうもいかない。

黒地に白い活字の本を讀んでゐると、行間に灰色の棒が浮んで來て、それが縞になつて動きだすのは鬱陶しい。この縞自體を寫眞に撮ることは不可能だが、その本を寫眞に撮つたものを見ればまた縞は現れる。考へてみれば、何だつてこの縞のやうなものなのだらう。目に見えるもの、そのものが寫眞に寫るわけではない。たとへば「色」を寫眞に寫すことは不可能である。

H16-6-18

二百四十枚

昨日開かれた「手鏡覗き容疑」植草氏の初公判に關する報道から:

犯行当時、車内に制服やミニスカートなどを着用させるなどした女性を被写体とし、立たせたり、四つんばいの姿勢にさせたうえ、スカート内をのぞくようなアングルで撮影した画像多数を含むポラロイド写真合計240枚、および合計238件の画像が記録されたデジタルカメラのピクチャーカード合計15枚を所持していた。

ZAKZAK『植草初公判全容すごい中身、盗撮AV大量所有… 』(6月17日)より

デジタル畫像はともかくポラロイド寫眞の二百四十枚は、かさ張る。熱心な人である。自分なら、何が寫つてゐればそれだけ持ち歩く氣になるだらうか。スカート内の類ならそんなにいらない。

一つ思ひついたが他人に言ふことではない。

參考:四月十三日「小さな鏡」

長島温泉

十三日の續き。水槽が目隱しになるといへば、昔の長島温泉の大浴場を思ひ出す。それなりに有名だつた話であるが、あそこは廣大な圓形の浴場が、魚の泳ぐ水槽によつて男湯と女湯とに仕切られてゐた。湯氣で曇つてゐるため、大して見えるものではないのだが、人目も憚らず水槽に張り付いてゐる男がちらほらゐた。いい歳した大人である。女湯からどう見えたかは聞いてゐないが、巨大な守宮のやうな影を想像する。

H16-6-16

豆知識

ラルフ・ギブソン關係の資料がまた集る。集るはいいが讀むのは骨。拾ひ讀みではせいぜい「豆知識」しか得られない。

樂屋話を知る必要はないのだが。

H16-6-13

水族館の光學

水族館の裏側を見るといふ催し。展示室の裏へまはると、水槽は上が開いてゐて、そこから餌をやつたり、光を當てたり、掃除をしたり、魚を入替へたりできるやうになつてゐる。そこで見學の一人が、案内の飼育員に「魚から見物客は見えるのか」と質問をする。照明のせゐで暗くではあらうが見えるに決つてゐるが、この疑問の出る理由はある。水槽を上から覗くと、見物客へ見せるための窓は、鏡のやうに泳ぐ魚を映してゐるのである。向う側は全く見えない。逆に、窓の外から水槽内を覗き、見上げても、水面が鏡になつて、餌をやる人の姿は見えない。透明である水が間にあることによつて、互ひに見えなくなるのである。これは光の「全反射」であり、不思議でもない現象だが、非日常の場では特別な發見のやうに感じなくもない。

水槽を上から見ると窓は全反射によつて鏡になる

海驢のショーは、海驢にやる氣がなくて中斷。發情期でそれどころではないらしい。

H16-6-11

森山大道全作品集の第四卷が發行された。ひとまづの完結である。去年までに發表の作品を收めたのだから、今後續きが作られる可能性はある。需要次第である。

見せ方が違ふのだから別物なのではあるが、ここ數年の作品、特に寫眞集を丸ごと移したところは、どうも面白くない。今後、出るかもしれない第五卷は賣りにくからう。

別の話。最近積極的に映畫を觀なくなつた理由を考へて、少し作文したが、とうに關心を失つたものに對して、否定的なことを書くのも樂しいことではないな、と抛棄。

H16-6-4

neigh Vol. 7

ぼちぼち讀んでゐる。以前のやうに大所帶ではなく、先間、長田、杉山の三人だけで書いてゐる。同人誌らしい雰圍氣が濃厚である。特集1は一昨年、國立近代美術館での展覽會『写真の現在2:サイト − 場所と光景』にちなんで相當深く、風景を巡る論考がされてゐるやうだが、字が小さいのが私には辛い。特集2は彼らの友人の寫眞家、大脇崇の個展について。大脇さんが力のある人であることは私も知つてゐる。友人同士の雜談ばかりを載せてしまふのはどうか。もつと詳しく評價してやつたら、と思ふ。最後は、展覽會評がかなりの分量。これは自分も行つたことのある物もあり讀んで樂しい。詰らないものは詰らないと言ふ率直さが良い。商業誌に載る批評は、もつてまはつた言ひ方が多いものだから。

再開第一號であるから、これからまた多くの人が集つて來るのだらう。値段は四百圓。サイト(neigh)に示してある連絡先はまだ有效なやうなので欲しい方はそちらへどうぞ。

參考:「neigh」のこと(平成十五年十二月二十九日)

H16-6-1

『森山大道 in Paris / カルティエ・ファウンデーションにて』

昨年からのフランスでの個展の記録映像(DVD)。監督は赤坂英人。内容は會場設營の風景(瀬戸正人が手傳つてゐる)や、觀覽者の樣子(フランス人だ)、本人及び關係者へのインタヴュー、パリ街頭での撮影風景など。パッケージのデザインがあまりに格好惡いのでどんなものかと思つたが、中味も酷いものだつた。誰が撮つたか知らないが、坐つてゐる人を撮るのに何故畫面が搖れるのだらう。森山について行くことすら覺束ない。切れる傾くで、絶望的に下手糞な撮影である。インタヴューの内容も不滿。細江英公を出しておいて、ほんの少ししか話をさせない(本に書いてある話ばかり)。ウィリアム・クラインはちらりと映るだけで何も語らず。それでも見所はフランス人モデルを使つたファッション寫眞の撮影風景か。しかしその手柄は森山とモデルのもの。これで永久保存版!とは。

どうして、藤井謙二郎に頼まなかつたのだらう。

Kato