「四角いもの」覺書 - 平成十六年五月

平成十六年五月

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提燈

不寢番が提燈を眠る兵士たちへかざす

軍隊生活を描いた繪葉書より。使用済で消印が「伏見10.12.23」とある(たぶん大正)。夜ハ火災盜難衛生ノ爲不寢番ガアルとある。持つてゐるのが提燈であるところが、風情があると言ふか何と言ふか。繪葉書にするくらゐだから當り前だつたのだらう。寫眞自體は何らかの照明を使つて撮られてゐる。

最近はもつぱら「眠る前の古繪葉書」。

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neigh 第7號が屆く。何年振りだらう。しかし字が小さい。讀む氣がなかなか起らない。

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三龍社繪葉書の部分

女工達が朝の體操をしてゐる。實際には體操をしてゐるやうに見えるポーズをとつてゐる。

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『カバーの間の寫眞』

英語盡しの本を買ふは良いが半分も讀めたためしがない。學生時代に授業で讀まされた切りだ。今は寫眞集の前文後書の程度。長ければ拾ひ讀みを少しして結局投げ出す。讀んでからと思つてゐたらいつまで經つてもここに書けないので、まだ讀む前だが書く。

副題に Interviews with Photo-Bookmakers とある。寫眞集を作つた寫眞家へ細々したことを訊いてゐる。適當に名前を拾ふと:

アメリカ人以外で一人細江英公。面白いのは批評家、出版業者も出て來て、最後は Sid Rapoport である。この人は紐育の印刷屋である。寫眞集の印刷者としてはお馴染である。

斜め讀みをすると、本を作るのにいくらかかつたとか、何部刷つたかなどと、具體的な質問がされてゐる。それに必ずしもはつきり答へてゐるわけではないが、たとへば『夢遊病者』は三千部、Larry ClarkTulsa は二千七百部、とある。商業出版とすると最低ラインだらうが、日本の状況と比べれば、意外と多いのだ。『夢遊病者』はこのあと二囘は増刷(しかもさらに多い部數)されたわけだから、相當な數が出たやうだ。所謂「レア」な本ではない。

僭越なこと

千代子は白粉氣(け)のない顏を、地味な焦茶のスーツでなほのこと目立たなく見せてゐた。その燻んだ、しかし目鼻の描線がぞんざいで朗らかな顏立ちは、見る人によつては、心を惹かれるかもしれなかつた。それなのに千代子はいつも陰氣な表情をし、自分が美しくないといふことを、たえず依怙地に考へてゐた。今のところこれが、東京の大學で仕込んできた「教養」の最も目立つ成果であつた。しかしこれほど世の常の顏立ちを、そんなに美しくないと考へ込むのは、ひどく美人だと思ひ込むのと同じくらゐに、僭越なことだつたかもしれない。

三島由紀夫『潮騷』(昭和二十九年)、第七章

かう云ふ人が最近多いのだらうか。しかし千代子がそれを悲しんでみせるのは親に對してだけだつた。やつと「私は醜いか?」と問ふことができた相手は、思慕の對象である男(新治)だけである。今どきは赤の他人に縷々打ち明けてみせる人もゐるやうだ。(さう云ふ人を見世物にするテレビ番組がある)

この手につける藥はなかなかない。千代子を救つたのは、いくらかの僥倖もあるが(小説家の都合か)、結局、新治であり、彼のほんの一言を受入れた彼女自身である。愛されないまでも、片思ひだらうが誰かを愛することは救はれる必要條件なのだらうか。それが不幸の元になつたりもするにせよ。

男の容姿コンプレックスに關しては、嘉村礒多の私小説に例がある。色の黒いことを苦にした主人公は輕石で顏を磨いてしまふ。次には色白くなる藥を通信販賣で買つて、それを寄宿舎の舎監に見つかつてしまふ。そして「母のものだ」と嘘を吐く。これは男ならではの状況である。

いづれにせよ共通するのは、惡意のあるなしを別として、親がその劣等感を育てるのに一役買つてしまつてゐるところだ。千代子の父は人の好さで娘に同調してしまふ。嘉村の場合は凄まじい。母に父に罵倒されてゐる。

「四角いもの」的見地から言ふと、腕の良い寫眞家(寫眞師、カメラマン)に金を拂つて寫眞を撮つて貰ふことは效めがある(らしい)。できれば化粧や衣裳もプロに頼むと良い。

上原隆のノンフィクション『友がみな我よりえらく見える日は』(幻冬舎アウトロー文庫、平成11年)には、容貌にコンプレックスを持つ四十六歳の獨身女性が出て來る(この人も整形手術を娘に勸めるやうな母親を持つてゐる)。彼女は四十五歳のとき、自分の体を誰にも見せたことないなって思ひ、自分のヌードを友人に紹介してもらつたカメラマンに撮つてもらふ。顏は寫さなくていいと言つたが、當然できあがつた寫眞には顏は寫つてゐた。彼女はその寫眞のポーズや表情に滿足し、それらを美しいと思ふ。それ以後、仕事場などで、写真のことを思い出すと、ちょっと幸せな気分になった。

それくらゐのことは出來る、と言ふ寫眞家は多いだらう。何か特別のやり方があるのか、と訊かれたら彼は「ありのままを寫すだけ」と答へるのではないのか(いろいろテクニックはあるにせよ)。良く撮られた寫眞は嘘を吐かない。少なくとも、自分が見ることの出來ない自分の顏を想像するよりは、現實に近いものが寫つてゐる。

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「ひとはなぜ美しくなりたいのか」

加藤もいくらか關はつてゐるなごや博学本舗主催のイベントが五月二十九日に名古屋で開かれる。「ひとはなぜ美しくなりたいのか」をテーマに講演、公開座談會、シンポジウムなど。演者はフリーライターの石井政之さん。ゲストに作家の中村うさぎさん。詳細、參加申込はなごや博学本舗のサイトで。

自分に關心を持ち過ぎる人たちを題材にした話なのだらうか。どうなるのか。

落し穴

古書檢索サイトでは、著者名と書名と二つ入力欄があるのが基本形だ。あるサイトで、人を探すのには著者名欄へその名を入れてゐた。ところがふとしたことで書名の方へ名前を入れたところ、ざくざく見たことのなかつた本が出てきて少し狼狽した。展覽會カタログなどで著者が編者の名になつてゐたり、雜誌の特集だつたりして引掛からなかつたのだ。今まで何をしてゐたのだらう。

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ベルメール人氣

復刊ドットコムを見てゐたら、リブロポートから出た、ハンス・ベルメールの寫眞集(アラン・サヤグ編著)にリクエストが集つてゐる。どうしたことかと思つたらアニメーション映畫『イノセンス』の關係で持て囃されてゐる樣子。人形がテーマ、らしい。かう云ふことは時々あるものだ。古書も品薄で、高値になつてゐるやうだ。手元の本を久し振りに見ると、最初が1984年で、これは「1992年5刷」である。値段の割にはそこそこ賣れてゐた本だつたのだ。地元商店街の本屋で買つた記憶がある位である。元から人氣があつたのか。

H16-5-13

最初の『夢遊病者』

Ralph Gibson: The Somnambulist (Lustrum Press, 1970) の初版と思はれる本を確認できた。メモによると私が初めて1973年のSECOND EDITION を手にしたのが平成七年である。その後 1970年のSECOND EDITION があることを知つたが、「1970年の FIRST EDITION」が實際にあるのかないのかも分らなかつた。今度のは、FIRST とも記載されてゐないが、ゆゑにそれと察することができる。

中味は全く同じだつた。ただ、表紙の裏からすぐ圖版が始まつてゐるところが違ふ。SECOND EDITION から裏表の表紙をめくつたところに白紙の頁を入れたやうだ。同じ年の内に形を少し變へた本が出たわけだ。ほか氣づいたのは、ISBNが無い;印刷所が Rapoport Printing ではなくて Lyle Hoffman といふ所である。印刷は並べて比べれば微妙に違ひが分る程度。

結局違ひといふほどのものはなかつたのだが、寫眞が差し替へられることもありうるので氣になつてゐた。

H16-5-9

イジー・トゥルンカ展(刈谷市美術館

副題が子どもの本に向けたまなざし。チェコのパペット(人形)・アニメーション作家による、繪本の原畫など。人形もいくつか。試し刷りと原畫とが並べられてゐるのは面白い。初版本がケースに置かれてゐるのみならず、額縁をつけられて壁に掛つてゐる。ただ畫風がそれほど日本人向きではないやうな氣がする。

ちらしなどには全く豫告されてゐなかつたのだが、アニメーション作品『皇帝のナイチンゲール』(アンデルセン原作)が上映されてゐた。名前ばかり聞いてゐて今まで見たことはない。臺詞無しで七十分と聞いて最後まで見られるか心配したが、映像も物語も十二分に樂しめた。童心に歸らずとも登場人物に共感できる。人形のデザインや動き、表情のみならず、ライティングや撮影技術が非常に高度。奧行きのある畫面を作つてゐる。始終鳴り續く音樂も完璧に畫面と同期して物語の一部になつてゐる。單なる人形劇ではなく全く映畫の作り方がしてある。ただし言葉の代りに象徴をもつて出來事を語る部分があり、異國(異文化圈)の子供(大人もか)には難しいところがあるかもしれない。私にもよく分らないところがある。私はこの人だけでなくアニメーション全般に詳しくないので感想もこれくらゐ。三十日迄。

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繪葉書で作る本

K美術館の「ワークショップ」に材料費五百圓を拂つて參加。繪葉書を綴つて本を作らうといふもの。繪葉書なら山ほどあるが、いざ本にするとなると金で買つたものでは厭である。本にされたらもはや繪葉書ではない。只となると寫眞や繪の展覧會案内の類だ。選び始めて困つたのは、寸法がまちまちであることだ。大きさが揃つてゐたはうが樂に綺麗にできることは知れたことである。發送元が同じものなら良からうと、Tギャラリーのものを拾ひ集めて持つて行く。言はれた通りに、ひたすら細く切つた和紙に糊を塗つては接ぎ合せる。表紙を付けて完成。二十二枚で二時間半かかつた。出來はともかくとして、かうしてバラバラだつたものがある秩序のなかに固定されてしまつたわけだ。しかし畫像の意味においての脈絡がどうみても無い。

數を數へるもの

時計を用ひて正確に計つて露出を行ふ時には、先づ蓋を取り去つてから時計を見るのであります。そしてゆつくり落付いて數を數へるのであります。

なるほど、數を數へることは時計には出來ないことであり、數へるのなら落着いてするべきである。

Kato