「四角いもの」覺書 - 平成十五年十一月

平成十五年十一月

H15-11-30

『シュルレアリスト 瀧口修造』

名古屋市美術館で講演を聽く。巖谷國士『シュルレアリスト 瀧口修造』:日本における「超現實主義」(所謂シュール)と、本來のシュルレアリスムとの違ひ。瀧口は日本では例外的に本來の意味でのシュルレアリストだつた、等々。巖谷氏の『シュルレアリスムとは何か』(メタローグ、H8/1996)を讀んでおくとよく分る話。ほか、個人的な附合ひからみた瀧口の人柄など。

Man Ray ist 氏も聽講されてゐたので御挨拶。私のことをもつと年寄だと思つていらつしやつた御樣子である。文章の字面から受ける印象からすれば當然か。さう云ふ印象を與へるが爲の正字正假名ではないが、さう思はれるのは惡い氣分ではない。

H15-11-28

豫定

今後書いて行く:「寫眞家から寫眞集へ」には、來年にかけて、あと數人の寫眞家についてまとめるつもり。特に寫眞集作りの名手を紹介したい。ラルフ・ギブソンについてもさらに充實させる。他に、或るテーマに沿つた「ブック・ガイド」のやうなもの、身の周りにある「四角いもの」を手當り次第に「語る」シリーズ、など。

古本屋のくれた目録ばかり眺めてゐても何も進まない。實はそれが一番樂しかつたりするのだが。

別の話。Man Ray ist 樣が襃めて下さつた。嬉しい。(マン・レイになってしまった人の日録

別の話。森山大道『犬の記憶』の英語版があるらしい。

H15-11-26

細川文昌『アノニマスケイプ こんにちは二十世紀』(自費出版、平成14年)

文庫本の寫眞集。初版限定百部(増刷された模樣)。冒頭の文:最期の場所と公告の言葉。一九〇一年・明治三十四年から二〇〇〇年・平成十二年まで、一年につき一件。二十世紀と現在の私たちについて。 「行旅死亡人」(身元不明の行倒れ)を知らせる市町村が發した公告の複寫と、そこに記された場所の現在の眺めを對にしてゐる。その公告は分つてゐる事實(發見の状況、風體、所持品)を正確に述べてはゐるが、その人の人生を理解できる手掛りとなるにはほど遠く、人ひとりが名さへ失つて世間から消えて行つたことばかりを強く傳へる。一方は一種の「現場寫眞」であらうが、それで何かが分るわけでもない。何の變哲もない街角である。おまけに最長一世紀の時間の隔たりさへある。その隔たりを一册かけて百年分縮めてみせるのである。物悲しくも、異樣な本である。

見た目、在り來りの場所をそのまま撮つた寫眞だが、誇張を殆ど感じさせることなく觀るに耐へる以上のものになつてゐる。殊に畫面構成が的確。全て無人の風景であることも注意したい。「コンセプト」だけの作品ではなく、それを支へる技術にも觀るべきものがある。書肆小笠原で扱つてゐる。二千五百圓。

別の話:奇魂からリンクをされた。

H15-11-23

逝つてしまつた人こそ、その人が寫つた寫眞が必要であるのに、彼を寫すことはもう出來ない。

もうすぐ必要な人は、寫すに躊躇はれる状態であることが多い。

H15-11-20

河田政樹『写真ノ書』(續き)

後ろの對談で活字の並び方が、がたがただ。行間・字間がまるで揃つてゐない。これで一氣に素人臭く見えて來る。上邊をなぞるに熱心な割に肝心なところを見てゐないやうだ。

H15-11-19

河田政樹『写真ノ書』(かわだ新書、平成15/2003)

私家本ながら「新書」の形式で寫眞集が作られてゐる。體裁として帶、栞、賣上カード(普通本屋で拔かれてしまふもの)まで備へてゐて、それは岩波、中公、筑摩、文春、新潮と最近書店に並ぶ新書と變りはない。但し値段が千八百圓で、初版限定百部である。寫眞(新)書と洒落てもいいところを「ノ」を入れたやうだ。新書の寫眞集といつても、たしかに目下書店に類似のものこそないが、別に珍しいと云ふ印象はない。森山大道『遠野物語』も「現代カメラ新書」の一册であつた。文庫版の寫眞集ならいくらでもある。その内に「寫眞新書」が出て來てもをかしくはない。氣輕に見られるのはいいが、ここまで形に拘る意圖が今一つ分らない。

内容はスナップショット。作爲の少い、身近で目についたものを撮つたやうな感じで、ブレてゐたり・ゐなかつたり、ボケてゐたり・ゐなかつたり。印刷の粗さが利いてゐる。鷄だの鴨だのが寫つてゐるのもあつて、最近の中平卓馬を聯想する。夜の寫眞やら、ブレてゐるところは昔のはうを。解説代りの對談では、こんなことまで言つてゐる:それに僕の撮っているようなカメラを前提とした写真の場合、基本的にそれは複写技術なんだからさ。はじめからオリジナルの複写、コピーでしかないでしょ。 この對談は言つてゐることは何となく分るが、美術から殊更に距離を置かうとする態度が目につく。「美術作家」が寫眞集を出す理由を、自分の屬する世間へあれこれ説明してゐるのだが、元々美術から距離のある場所にゐる見物人には、かへつて意識し過ぎに聞える。これを機に寫眞家もやつて行く、では駄目か。

NADiff でのみの取扱ひださうだ。偶々用事のついでに立寄つたところで見つけた。そこで中平卓馬『原点復帰−横浜』(Osiris、2003)も購入した。横濱での中平の展覽會へは行つてゐない。見てゐる内にだんだん行きたくなるが、行かないだらうな。今年は島根へ行つてそれで充分、といふことで。

H15-11-16

『油地獄』

斎藤緑雨『油地獄』(明治廿六年)より:

油は次第に煮(にえ)て大小の粒ぶつぶつと沸立つ頃から、貞之進の形相は自然に凄じくなつて、敲き附るやうに投げ込んだのは小歌の寫眞で、くるくると廻つて沈んだと思ふと直浮上り、十二三分の間に寫眞は焦げ爛れて、昨日迄は嬉しくながめられた目元口元、見るみる消て失(なくな)つたを、まだ何か鍋の中に殘つて居るやうに、貞之進は手を膝に突いて瞬きもせず屹と瞻詰(みつ)めて其夜の明るのも知らなんだが、火勢漸く衰へて遂に灰になる時、貞之進の首(かうべ)は前に垂れて果は俯伏しになつて仕舞た。

「小歌」は藝者の名前。

「油地獄」と銘打つた小説で、結局そこへ落されたのは寫眞であつた。慘劇を起すどころか自殺さへしない。肩透しもいいところであるが、ここが明治らしいのだらう。それにしても、これは一度やつてみたい氣もする。誰の寫眞にしようか。

進學のために長野から東京へ出て來た主人公目賀田貞之進は、國元の兩親の寫眞を抽斗の中に持つてゐる。寫眞の中の親では藝者に迷ふ男を諌めることは出來なかつたと云ふわけだが、この頃、親の寫眞を持つて上京することは普通だつたのか。今の人はどうなのか。

H15-11-14

skysoft(インターネットの洋書屋)の目録にとつくに絶版になつてゐる本が載せられてゐる。物は試しと註文してみるとやつぱり入手不可と返事が來る。勿論、在庫としてどこかに殘つてゐることもあるから、全くの無意味とは言へないが、その直後もその本が相變らず載せてあつたりする。

H15-11-10

Directory of Notable Photographers

「寫眞家辭典」のサイト。作品を全く載せずリンクで畫像の在處を示してゐる。私もこのやり方でやつて行く積り。但し、他で見られなくて且つ著作權者の許しが得られたら載せるかもしれない。まあわざわざ面識さへ無い人から積極的に許しを得ようとはしないが。

索引でのキャッチコピーの附け方やら、If you like XXX, you may also enjoy..(XXXは寫眞家の名前)の決り文句とともに別の人を紹介するやり方は、あんまり見習ひたくない。もしラルフ・ギブソンが好きなら、ロバート・フランクも樂しめるだらうとかもしリゼット・モデルが好きなら、ダイアン・アーバスも樂しめるだらうなんて、假にさうだとしても、安直な感じがする。

H15-11-7

瀧口修造『オートマティスムの彼岸』(名古屋市美術館

「自動筆記」による繪のやうなもの。作家が作り出したと云ふよりも、また偶然の産物と云ふよりも、世界に遍在しながらも目に留められることなく濳んでゐる景色を、四角形の枠で掬ひあげたやうに感じる。

企劃展のはうは『フリーダ・カーロとその時代/メキシコの女性シュルレアリストたち』。繪の横に貼られた解説文で、シュールな雰囲気を醸し出していると書いてあつた。

H15-11-6

津田一郎『ザ・ロケーション(ヤゲンブラ選書)』(晩聲社、昭和55/1980)

この人の名を聞くと『奥の細道』(ニッコール・クラブ、S63/1988)のおどろおどろしい寫眞をまづ思つてしまふがピンク映畫のスチールカメラマンが本業である。この本では映畫撮影の裏話、仲間の監督や俳優のエピソードを親しみを込めながら面白く書いてゐる。現場の樣子を傳へるスナップショットも多く添へられてゐると云ふより、作者にしてみればこちらが主たる内容であり、本より先にこのタイトルで寫眞展が開かれた。話が古くて實際に見たことのある映畫は全くないが、そこで働く人々がテーマであり讀むに支障はない。奧附を見ると三ヶ月で七刷、賣れた本なのだ(いまだ新刊を購入できる。古本も多い)。

アダルト・ビデオの擡頭で、にっかつロマンポルノはとうに無くなつたがピンク映畫はまだまだ作られてゐるし、津田の名前をスタッフの中に見ることが出來る。根強いファンがゐるのだ。私は去年か一昨年くらゐに、地元にあつた潰れる直前の映畫館で記念に見てみたのが最後。性描寫はむしろ奧床しいが、くだけた娯樂映畫として惡くなかつた。例へばこんな話:二人の男が迷ひ込んだ古寺で尼僧に誘惑され、その虜となるが、彼女たちは男を呪ふ怨靈だつた。ラストシーンでは廢屋の中、男たちが虚空に向つて必死に腰を振つてゐた(そのまま死ぬまでやるらしい)。低豫算を技術と工夫と熱意とでカバーして餘りあるのは、今も變らずと云ふところ。

さほど知られてゐない津田の著作に『平家物語』(赤間神宮、H11/1999)がある。『奥の細道』と同じく古典を題材にして、ゆかりの地で強引なまでに心靈寫眞風。内藤正敏、伊藤明徳あたりとともに、和風「怪奇」寫眞として論じてみるといいかも知れない。

H15-11-4

惠存

身錢を切つて買つた「四角いもの」に作者のサインを貰つたところ、私の名前に加へて「惠存」とつけられたことがある。これは言葉の使ひ方として正しいのだらうか。

恵存:自分の著述などを贈るとき,相手の名前の脇に書き添える語。「お手元にお置き下されば幸いです」の意。

基本的にこちらの名前は書かなくてもいいのだが。もしかして書きたいのかも知れないから書いてもらはうか、と云ふ程度で。

H15-11-1

古本屋の店先で福永法源の寫眞集を見た。天行力を撮つた、だつたかのタイトル。三百圓だつたから買つてもよかつたが、中味は屋久島で撮影されたよくある寫眞。普通に巧く撮つてある。福永がカメラを構へる寫眞も載つてはゐたが、「ゴースト」カメラマンによるものか。

足の裏が並んでゐたら買つてしまつたかもしれない。

Kato