「四角いもの」覺書 - 平成十五年十月

平成十五年十月

H15-10-31

深瀬昌久『洋子(ソノラマ写真選書8)』(朝日ソノラマ、昭和53/1978)

是が非でも欲しいと云ふわけでもなかつたが「タイミング」が合つて購入。手に入れてみれば素晴しい本。何度も手に取つてしまふ。そして自分の興味の範圍では、端に近いところにゐる人であることも再確認できた。「洋子」とは寫眞家の妻である。顏が四角くて、目と口が大きい。手練れの人が自分の日常を題材にあの手この手。見る方の卑近な記憶や感情も巧みに刺戟される。惹きつけられつつも重苦しい。遺影めいた表紙と、切れ目ごとに現れる鴉鴉鴉。これだけもかなりキツイ。下手がやれば笑つて放り出せるのだが。

H15-10-29

客觀的

或る先達から戴いた御便りに「物を集めるのは、欲望と共にあるが、集めた物に對してどれだけ客觀的な姿勢を保つ事が出來るか、この部分が大切」とあつた。肝に銘じたい。

物に對してのみならず、まづ自分に對して客觀的でなければならない。しかしこれがさらに難しい。實は、もう何が何だか分らない状態で。

H15-10-28

蛭田有一『中曽根康弘の肖像』(求龍堂、平成11/1999)

中曽根元首相の議員引退がニュースになつてゐるが、四年前に出た、この元首相をテーマにした寫眞集は、なかなかの出來である。世界の著名な政治家と並んだ寫眞から、日常の仕事、會合の樣子、自宅で寛ぐ姿など、一人の寫眞家が、じつくり撮つてゐるのである。宣傳臭は少ない。中曽根氏の、とらへどころのない大物(怪物?)ぶりを感じるばかりである。

元首相御自身も氣に入つてゐるやうで、自分のサイト(中曽根康弘の世界)内で四十點、公開してゐる。

H15-10-27

清里の思ひ出

K*MoPA 友の会」會員繼續の案内が屆く。年會費三千圓。何年か前に一度行つただけで、私には會報だけの値段になつてゐる。「図書引換券」と云ふのも附くが、美術館へ行かなければならない。最初の頃は何にも言はなくても、本を送つてくれたのだがなあ。

ただ一度の清里行きのこと:Manuel Alvarez Bravo 展へ行つて、それは素晴しかつたのだが、ガイドブックを見て選んだ驛前のホテルがひどかつた。椅子は坐るとそのまま壞れて二つになつてしまふし、枕元の電燈はいきなり半囘轉して目の前にぶら下がるし、玄關のマットはいつ見ても躓きさうに縁が浮いてゐる(注意しても直さない)。まるでドリフターズのギャグみたいだつた。ペンション(洋風民宿)を避けたのが裏目に出たのである。あそこは驛から美術館まで長い下り坂になつてゐて、貸自轉車で行つたら、行きは五分、歸りは三十分以上かかつて、息も絶えだえ。この次は併設の宿泊施設(パトリ)にするつもりではゐるが、ここのレストランで食事をしたときに……、細かいことだから、やめとく。と云ふわけで、電車を長々乘り繼いで行つた割に、もつぱら良くないことを思ひ出すのである。

H15-10-25

photographers' gallery展(續き)

photographers' galleryのサイトに説明があつた:

写真は、印画紙や額、ホワイトキューブ(ギャラリー、美術館)といったさまざまな支持体にささえられながら「写真=作品」として機能、流通してきました。しかし写真は純粋な「イメージ」でもなければ、確かな「物体」でもありません。「イメージ」と「物」との中間に位置するような不思議な存在です。さまざまな物質に寄生し、あらゆるところに無数に遍在する「イメージ」です。

この展覧会では、多角的な視点から「写真」を見直し、印画紙という安定した二次元の支持体と、ギャラリーという安定した三次元のホワイトキューブという支持体を同時に「異化」するような展示を試みます。

寫眞とは光が作つたイメージ物体に痕跡として殘つたものである。少なくともそれが發明されたときには、さうである。支持体と言つてしまふと、いかにもそれが寫眞から分けられるやうに聞えるが、それも寫眞の一部である。中間に位置すると云ふのが分らない。

以下作品の感想ふたつ:

楢橋朝子の作品(タイトルを日本語で言へば「水の中で半分覺醒半分睡眠」)は、なかなか快感だつた。既に作品のいくつかは寫眞の形で見てゐるが、今囘はビデオ映寫機による上映。海に浮びながら水面すれすれから陸地を眺める。前例の無くもない寫眞だが見た目の新鮮さ、面白さは十分に感じられる。「スライドショー」で見せる意義もある。表情を變へつつも類似の畫面が續き、こちらも浮游してゐるやうな氣分になれる。子供の頃、海水浴へ行つたときにこんな眺めを見た記憶がある、と云ふ人も多いのではないか。或は、その夜に見た夢にも似てゐる、と。タイトルは、陸と海の對に照應し、さらには、この世とあの世の對を聯想させる。棺桶に片足突ッ込んだ氣持ち良さと言ふべきか。

設楽葉子の作品「記憶」は、自分の家庭を縷々寫したビデオ(動畫)である。主人公の女性(作者の御母堂)に作者は畏怖の念すら感じてきたさうだが、子供と云ふ立場で長く接してゐればさうだらう。しかし、かなりしつこい人ではあるが、身體の具合が良くないことを考慮すれば、全然普通の人である。家の中で何でも寫すことだつて、結構やる人はやることだ。但しそれを赤の他人に見せる必然性がどれだけあるのだらうか。この作品を受け入れるためには、作者の心理に立ち入つて、あれこれ揣摩憶測せねばならない。つまり、これも愛情表現の内なのだらう、とか。カメラがそこにあることによつて何かに耐へてゐるのだらう、とか。よく見れば親孝行だ、とか。こちらが勝手に思ふことだが、これでは思へと指圖されてゐるやうで、必ずしも樂しいことでない。他人に納得させる藝がそこにあれば、何を見せたつて構はないのだが、この場合はどうだらうか。特に寫される人がカメラを嫌がり「やめろ」と怒つて場面が變るところは、安手のジャーナリズムの遣口を思はせて、白ける。設楽の寫眞作品は photographers' gallery press で見ただけだが、こちらのはうが見易かつた。母娘の關係が先に立たず、後からついて來てゐた。

H15-10-24

或る人に言はれたが Mehikarism が「文字化け」して見えてゐるらしい。いろいろ制限を感じることもあつて、iBlog ともサヨナラする豫感。

H15-10-23

photographers' gallery展(中京大學Cスクエア)

photographers' gallery が名古屋へ出張しての展覽會である。私は新宿のギャラリーへは一度しか行つたことがない。向うから來てくれるのは有難い。ところが普通の寫眞(gelatin-silver とか type-Cとか)が殆どない。ビデオ(DVD、パソコン)上映か、インクジェットプリンターによる印刷である。傳統的な寫眞は、ポラロイドが一枚(設楽葉子)と、ネガをそのままライトボックスに載せたもの(笹岡啓子)くらゐ。看板に僞りあり、と言つては言ひすぎか。特にビデオ(スライドショーや動畫)は、私としては苦痛。機械の作る時間に縛られることには苛々するのである。寫眞の特性は時間的に變はらないものであることだ(現像時の化學反應、また經年變化を除けば)。觀賞にかける時間は觀る人の自由である。それは私が寫眞を好む大きな理由の一つである。その場所に足を止めさせ、一枚當りの觀る時間を區切られ、數分から數十分電動紙芝居を見させられたくない。百枚の寫眞を一分で見る事もあるが、一枚の寫眞を前に一時間立ちつくしたこともある。どちらにせよ、それは相手が寫眞だからこそ體驗できる時間なのだ。グループ展であるから、さう云ふものがあるのも大いに良い。しかし、揃つてすることはないんぢやないかな。

この展覽會のために作つたグループでの寫眞集と、本山周平の寫眞集『SMタブロイドVol.6』が無人販賣されてゐたので購入した。本山は今までの「タブロイド」も合はせて壁に貼つてゐた。つまり壁新聞である。筋が通つてゐると納得。どうせなら驛賣の新聞みたいに丸めて立てて、上へ重ねてみせても面白さうだ。

H15-10-25 追記改訂

H15-10-21

分らない中平卓馬

『なぜ、植物図鑑か』(晶文社、S48/1973)を讀むと困惑する。事物(もの)の視線とは、比喩なのだらうが、視覺が必ずしもあるわけでもないものの視線とは何だらう。

では、なぜ植物なのか? なぜ動物ではなく、鉱物図鑑でもなく、植物図鑑なのか? 動物はあまりになまぐさい、鉱物ははじめから彼岸の堅牢さを誇っている。その中間にあるもの、それが植物である。と、言はれても困る。全く「何故、植物圖鑑なんだ?」と言ひたくなる。かうした物言ひこそ彼が今さら帰って行くことのできない筈の、ポエジーであり、イメージぢやないか。圖鑑を成立たせてゐる言葉は斷じて詩ではない。

H15-10-20

戰前繪葉書の値段

インターネットで一枚だけのものを買ふと五百圓くらゐからになる。結構高いのである。古書店などで直接買ふとしても、二三百圓くらゐが最低だらう。かつては一山いくらの時代もあつたらしいが、もはや何でもいいからまとめて買つておかうと云ふ値段ではない。實際少しやつてみて分つたのは、繪柄の良し惡しで選ぶのは效率が惡いし、結局まとまつたコレクションになりさうもないこと。ある程度テーマを狹く決めて、それに集中するのが良いと感じてゐる。

それに比べれば、新しいものは安い。誰の家にでもあるやうな觀光地の繪葉書の類である。値段相應に、かへつてこれらのはうが色褪せて見えるのである。しかし、繪葉書そのものが廢れつつあるメディアであることを考へると、價値はこれから上るかもしれない。

H15-10-29 訂正

H15-10-17

マリー・エレン・マークの新刊

Mary Ellen Mark の新刊、Twins が出た。20x24インチのポラロイドを使ひ、スタジオで雙子を撮つてゐる。版元の Aperture でも力を入れて賣つてゐる樣子。行けないからどうでもいいが、明日(18日)サイン會が紐育で開かれるさうだ。

H15-10-10

Leslie Lieber: How to Form a Rock Group (Grosset & Dunlap, 1968/S43)

ロック・グループのための指南書。實在の、ある十代の少年たちのグループ(The Forum Quorumと謂ふ)がテレビ出演するまでを追つてゐる。音樂的な話はなく、練習の仕方、樂器の買ひ方、自己演出の方法、仕事を得る方法など、商業的な成功を目指すためのやり方が細かく書いてある。殆どのページに寫眞が載つてゐる。演奏風景だけではなく、何故か店で樂器を物色してゐる場面や、荷物の上げ下しの場面、忘れ物をして困つてゐるところなどが、延々と出てきたりする。演奏中の恍惚とした顏ばかり並んでゐるわけでないのがいい。

撮影者として、Ralph GibsonRobert Pliskin の名前が書いてあるが、『夢遊病者』の作者であるラルフ・ギブソンの經歴に、この本のことは出て來ない。また、この本の寫眞で、見たことがあるものもない。寫眞の質が高いため、その人かとは思ふが、確證はない。

ちなみに入手したのは、ニューヨークの某圖書館にかつてあつたもの。背にラベルが貼つてある。貸出カードを入れるポケットが附いてゐる。ジャケットには補修の跡がある。この本を眺めながら、何人の少年が夢を見たことか。

H15-10-9

誰も行かない山

だれも行かない山は、人気のない山、めったに写真の売れない山であり、そんな山を相手にしていたのでは、ふんぞり返るよりさきに干上がってしまう。、新妻喜永寫文集『山は斜光線』(山と溪谷社、S63/1988)、p.8。

どうせ干上がるのなら、誰も行かない山へ行きたい。

H15-10-4

HPAの動向

はこだてフォト・アーカイブスのウェブ・サイトが七ヶ月半ぶりに、昨日の日附で更新されてゐるが、先頭ページから「書評」(拙文;ファイルはまだ殘つてゐる)や他サイトへのリンクが消されてゐるだけのやうだ。何が言ひたいのかな。

H15-10-3

John Flattau: Photographs (The Witkin Gallery, 1993/H5)

洋古書の通販。表紙に、大々的に擦れた跡がある。それはそれで味はひなんだが、やはりどうも。一番安いのにしたのが失敗だつたか。

内容は拔群に良い。寫眞のスタイルや編輯の仕方は、ラルフ・ギブソンのやり方を踏襲してゐる(似てゐる)。しかし、畫面はもう少し雜然としてゐる。それほど幾何學的な形には拘つてゐない。そのかはり、見開きでの組み方がまるで二コマ漫畫のごとく、徹底して關聯づけられてゐる。縱長と横長の畫面を交互に列べることで生じる視覺的リズムも氣持ちいい。ところで、Flattau つてどう發音すればいいのかな。フラットーでいいか。誰か教へて下さい。

ジョン・フラットーは、ラルフ・ギブソンの設立した出版社、ラストラム・プレス(Lustrum Press)の本に、編輯者などで名前がよく出てゐる人。

H15-10-1

すでにある價値をなぞつてみせる寫眞にこそ需要がある。

Kato