「四角いもの」覺書 - 平成十五年九月

平成十五年九月

H15-9-30

ピエール・ブール著、三輪秀彦譯『報道写真家』(早川書房、昭和44/1969)

『猿の惑星』・『クワイ河の橋』で有名なフランス人作家の、有名でない小説。かつて報道寫眞家だつたが戰場で隻脚となり燻つてゐるカメラマンが、世紀のスクープ寫眞を撮影するために、テロリストや警察を手玉にとつて大統領暗殺を仕組むと云ふ、かなり無茶な話。このカメラマンは地獄變の主人公さながらの藝術至上主義者であり、寫眞のためなら友情も人命も祖國も糞食らへである。主人公以外の人:テロリスト達、大統領の護衞、さらにはフランス大統領その人までが間拔け、と云ふ設定のため、サスペンスには大幅に缺けてゐる。この話の主題となつてゐるのは、主人公のカメラマンや、彼の師である老寫眞家(これも藝術至上主義)の心理である。就中、老寫眞家がかつて撮つた傑作スクープ寫眞にまつはるエピソードは面白い。彼は、飛び降り自殺を圖り、蟲の息の女優に言葉を掛けて、絶妙な表情を引き出したさうな。これは實際のカメラマンもやりかねないか。

報道カメラマンが藝術家氣取り、なのが世間一般では通りにくいことも作者は承知してゐるやうだ。残念なことに、カメラマンは画家ほどの名声には決して到達できないのだ! どんなにセンセーショナルな写真でも、カメラマンの名前は少数の専門家たちの記憶にしか残らず、しかもほんのしばらくのあいだだけである。

H15-9-27

ホームレスの一割

村田らむ・黒柳わん著『こじき大百科』(データハウス、H13/2001)にホームレスへの取材・撮影術といふページがある。それによると写真は駄目という人も多いが、頼んでいると一割くらいの人は撮らせてくれる。中には少数だが写真を撮られたがっている人もいる。さうだ。ちよつと思つたのは、「ホーム有り」の人では撮らせてくれる人は何割くらゐなのか、と云ふこと。頼む人によつて違ふだらうが。

この本は、實際をよく調べてあるところは面白いが、取材に應じてくれた人を馬鹿にしたり、露骨に嫌惡感を示したりしてゐるところが讀んでゐてイヤになる。そもそもホームレス(宿無し)=乞食とは限らない。矢張その邊りが問題となり、すぐ絶版になつたらしい。

H15-9-26

朝日ソノラマ編『私のカメラ初体験』(朝日ソノラマ。昭和51/1976)

現代カメラ新書No.16、プロへの道を志す動機となった思い出のカメラと作品などを著名写真家35人が語る。35人の最長老は西山清(明治二十六年生)で、若いはうは北井一夫(昭和十九年生)。乾板を使ふ箱型寫眞機から、キャノネットまで。今、同種の本を作つても面白くならないだらう。貧しかつたからカメラが輝いて見えたのである。失敗したから夢中になるのである。写ルンですならまだマシで、初めてのカメラが携帶電話ではありがたみはない。

H15-9-25

邪魔物

とある有名「撮影地」(觀光地ではない)に住む人の話を聽いた。簡單に言へば、カメラマンには迷惑してゐる、と云ふ話。人が仕事をしてゐるところをジロジロ見ては、黙つて寫眞を撮つていく。さらに「あの電柱が邪魔だね」と言はれたとか。たとへ冗談でも、そこで生活してゐる人に、言つていい言葉ではない。

前田真三寫眞集『四季彩歳』(日本カメラ、H3/1991)にこの写真も邪魔物を隠して撮るのに苦労した(85頁)とあるのを思ひ出した。ここでの「撮影地」は岐阜縣白川村の合掌造りの集落である。前田先生も正直だなあ。

H15-9-24

先間康博寫眞展「retrospective 1974-2002」(名古屋港ガーデン埠頭20號倉庫)

photo:先間康博写真展会場

既に使はれてゐない古い倉庫がそのまま會場になつてゐる。作品は床の上に直に並べられてゐる。黒々とした印畫はそこに穿たれた穴のやうにも見える。天井の高い、がらんどうな部屋が、折しも激しく降つてきた雨の音に滿たされていく。寫眞たちはまるで、この巨きな・空つぽの空間に押し潰されてゐるやうだ。いや、それは元より、平たく、薄つぺらな、奥行きを持たない、要するに紙切れなのだ。對比をもつて、明らかにされる寫眞の本質。

H15-9-22

人間關係を理由に本を買ふことがある。これは仕方がない。しかし自分の人間關係だけを理由に他人に本を薦めるのは、迷惑である。

「俺の可愛がつてゐる奴が書いた本なんだ、讀んでよ。俺はまだ讀んでないけどさ」

もつと迷惑なのは、こちらの人間關係を使つて本を薦めることを、大して仲良くもない人から指圖されることである。

「お友達にもこの本を薦めて下さい。十册ぐらゐはいけますよね」

H15-9-21

丈夫な人

『写真評論家』の「日記」を讀むと、飯沢さんが「丈夫な人」であることが分る。東奔西走である。展覽會や學校のハシゴである。始終、人に會つてゐる。そして執筆をこなしてゐる。テレヴィジョン番組にも出る。スーパーマンである。一番偉いのは、面白い寫眞だつてそんなに見たら疲れるだらうに、相當な數の「つまらない寫眞」も見てゐるであらうところである。もし作者が目の前にゐたのなら、そのつまらないものにも何か言つてくれるのである(多分さうだと思ふ)。

裁判にも出たことがある(飯沢耕太郎氏証人調書)。

「丈夫な人」については、小谷敦著『軟弱者の言い分』(晶文社、H13/2001)を參照。

H15-9-20

国書刊行会の「日本写真史の至宝」は結局出版されないことになつたのか。刊行豫定がどんどん遲れていつたと思つたら、いつの間にか消えてゐる。何があつたか知らないが、殘念。どんなものなのかは、飯沢耕太郎『写真評論家』(窓社、平成15/2003)の九十六頁に書いてある。

ワイズ出版から久し振りにダイレクトメール。知らない間にいつぱい出てゐる。

H15-9-19

噂には聞いてゐたが本當に「森山大道全作品集」なるものが出るらしい。日本カメラ九月號に少し書いてあつた。

どんなものかは見なければ分らないのだが、私としては、雜誌連載をそのままの構成でまとめた本が欲しい。『アクシデント』、『何かへの旅』、『地上』、『犬の記憶』、あとは特に「写真時代」のもの。古雜誌を集めるのも樂しいのだが、嵩張るからなあ。いや、もうとつくに嵩張つてゐるが。

H15-9-18

蒐集家

Sさんは新潮社の『フォーカス』を創刊以來買ひ續けて保存してゐたのだが、例の神戸事件の下手人の顏寫眞が載つた號を買ひ損つたので、以後買ふのをやめた。「朝、本屋にあるのを確認して、晝に買はうと思つたら無かつた」と悔しさうに言つてゐた。雜誌を創刊號から最終號まで揃へるのが目標の一つらしい。「これは全部ある」といふ雜誌をいくつか見せて貰つたものだ。

話を聞いたのは古い、大きな土藏の中である。本の詰つた棚が並んでゐる。その上に高く雜誌類が積んである。床が傾いでゐる。大丈夫ですかと訊いたら「何度か補強はしたのだけどね」。文藝書が中心だが、趣味・スポーツ本、辭書、圖鑑と、いろいろある。そのときどきでテーマを決めては、徹底的に集めるさうだ。

歸りには、藏の片隅で埃を被つてゐた小芥子を二本、土産に持たせてくれた。これもコレクションの一つだ。その日、私は頼みがあつて訪れたのだが、Sさんはそれを斷つたので、その代りの意味もあつたのだらう。小芥子は今も目に入るところに飾つてある。

H15-9-17

ラルフ・ギブソンに『ロック・グループの作り方』と謂ふ本があるらしい。但し、いつもの寫眞家のギブソンかどうかは今のところ判らない。

H15-9-16

retrospective

先間さんから寫眞展の案内が來る。タイトルが retrospective 1974-2002 ださうで。しかし、ちと早くないか。ひよつとして一種のパロディ?(9/24 - 28、名古屋港ガーデン埠頭20號倉庫)

手づくり本

宮嶋康彦が、インクジェットプリンターで印刷した寫眞で、手製本を作るさうだ(九月十五日の「today's shot」参照)。

H15-9-15

「これは高價なものなのだ」と自慢されても、門外漢にはいくら位なのか、さつぱり見當がつかない。はつきりと買つた値段を言へばいいのに、なぜか決して言はない。

H15-9-14

家人が隣町の圖書館から古雜誌を貰つて來てくれた。去年の美術手帖とアサヒカメラを數册。美術手帖平成十四年四月號が「写真、表現。」なる特集だつた。お馴染の人を含めて何人かの寫眞家が登場してゐる。今まで知らなかつたが安村崇といふ人が良い。單純な畫面のなかでの緊張感とユーモアとのバランスが獨特。

H15-9-13

いつだつたか忘れたが、テレビ番組「ニュースステーション」で、キャスターの久米宏がゲストの篠山紀信に向つて、「今のカメラは、誰が撮らうが、機械がピントも露出も合はせてくれる。私が撮つてもいいんぢやないか」と云ふやうなことを言つたことがある。日々カメラに圍まれ、寫眞にも寫されることの多い久米が本氣でさう思つてゐるわけでもなからう。これは、この人の遣口で、自分はとつくに承知のくせに、視聽者の多數を占めるであらう無知な人の代辯者になつて、他人を問ひ詰めてみせるのである。迎合は連中の商賣だから仕方がないやうだが、かう問はれた後に答へる時間はもう少ない。商賣のダシにされた人は災難だ。

H15-9-08

禮状

寫眞展へ行つて記帳すると、後で葉書が來ることがある。見たくて見に行つたのだから禮には及ばないが、感じは良い。感想をくれ、と書いてあるものもある。それはそれでいいが、何も言ふことがないときは無視することになる。わざわざけなすために返事するのは、さらに億劫。連絡先が書いてあれば、襃めたい人は襃めてくれるのではないかな。私はさうしてゐる。

そんな葉書が一通屆いた。感想下さいと、電子メールのアドレスまで書いてあるのはいいが、字が汚くて讀めないぞ。

別の話。會場で本人に會つて感想を傳へたところ「是非、次の展覽會の案内も差上げたいから、住所を書いてくれ」と言はれた。で、書いたのに、來る筈の案内が來ない。まあそんなものだが、襃めて損した氣分になるのは、我ながら妙だ。

Kato