「四角いもの」覺書 - 平成十五年八月

新しい日附ほど上にある

平成十五年八月

H15-8-29

slow boat 入港

尾仲浩二『slow boat』が屆いた。豫想以上の本。薄闇の哀切さが、もう何といふか、たまらない。

H15-8-28

新聞記事だけを見て、展覽會へ行くのは考へものである。自動車を一時間餘り運轉して辿りついたら「それは來週からです」と言はれたことがある。「動かぬ證據」の新聞の切拔きを見せたつて、恐れ入つてもくれない。この時は獨りだつたが、こちらから誘つた同行者がゐたりしたら、たいへんに氣まづい。

今囘は「同行者」のはうだつたのですがね。

H15-8-26

石川賢治『月光浴・20年の旅』(大丸ミュージアム・梅田)

撮影場所は世界の有名觀光地。さらに「京都」では、金閣寺、銀閣寺、清水寺、龍安寺と、まるで修學旅行だ。そして、あくまで月夜に撮影するのである。この分りやすさには學ぶべきものがあるかもしれない。瀧壺に女性のヌードと云ふのもあつた。もうこれ以上ない分りやすさだが、こちらは何しろ月夜なのである。會場は照明を落し、丁寧に四角いライトで、寫眞のみを仄かに明るく照らしてゐる。それらしい音樂が流れ、それらしい鉢植なども配されてゐる。高級百貨店に似つかはしいセンスの會場である。さすが客商賣、入場料だけのもてなしをしてゐるのである。

H15-8-22

曾野綾子『一枚の写真』(光文社文庫、平成5/1993)

小説。主人公の若いカメラマンの助手が持つてくる寫眞をはさんで、作家である「私」とで會話がなされて、それにまつはるエピソードが明らかになる。こんなパターンで二十三枚(時として組)、二十三話。小説としては惡くないが、主人公は寫眞が下手糞、と云ふ設定は面白くない。まだ助手といつても、彼にはカメラマンらしさがまるで無く、ここぞといふ時でさへも目に見えないことばかりに氣持ちが向いてゐる。その代り、話は上手なのである。「私」が殆ど曾野氏であるのは明らかだが、このカメラマンも曾野氏の分身である。話の中心に寫眞があるやうでゐて、それは大した役割を當てられてはゐない。大切なことはカメラで撮ることはできない、と云ふことのやうだ。

小説の中で「私」は、しばしば寫眞一般に對する考へを述べてゐる(主人公には何の定見もないやうだ)。これは曾野氏のものだらう。辛辣であり、しかし良い意味で常識的である。また主人公の師匠にあたる有名カメラマンの描寫にはさり氣なく皮肉が籠つてゐる(きつとモデルの寫眞家がゐるのだらう)。

H15-8-20

レオン・スピリアート展(愛知縣美術館

Léon Spilliaert (1881-1946)、日本では有名でないベルギーの畫家。いかに大膽に誇張や省略がなされやうが、怪奇なまでに幻想的な装ひであらうが、光の扱ひが寫眞的だ。つまり、或る場所での或る時刻における光の状態と確實に照應してゐる、と感じられる陰翳や色彩の描寫である。また、風景畫での遠近法の使ひ方はまるで超廣角レンズによる寫眞のやうだ。長い三角形が斜めに畫面を横切つてゐる。これらの特徴を目に心地よい刺戟と感ずる。

H15-8-18

100万人のカメラ・創刊号(新風社、昭和38/1963)

日本ではじめて生れた美女ファンとヌードファンのカメラ雑誌で、編輯委員は、稲村隆正、杵島隆、秋山庄太郎、早田雄二、中村立行他と錚々たる人たちであり、一應真面目な(?)雜誌を目指してゐるやうでもある。さらに作品解説は日本寫眞家協會々長で日本大學教授の渡辺義雄である。また女流カメラマンヌード傑作集として、常盤とよ子、村井美奈子の作品も掲載。しかし格調あるヌード寫眞に混じつて、猥談じみた小咄やら女探偵のかくし撮りスナップ集が載つてゐて、結果的に全體の印象は「エロ本」。唯一の廣告が悩殺パンティ・決定版/魅惑のネオ・パンティであるのも致命的である。あくまでも100万人のよる・写真版なのだから仕方がないか。それはともかく、毒消しのつもりか裏表紙が、フランソワーズ・モレシャンさんの指導するフランス式表情講座であるのは唐突。

H15-8-17

東松照明の写真1972-2002『長崎マンダラ』(京都國立近代美術館

常設展示場の一室で、東松照明のカラー寫眞の展開を紹介する六囘シリーズの第三囘。その中には、かつて東松氏の寫眞で見た人々のその後の姿が見られた。ごく普通の表情である。救はれたやうな感じがする。彼らの人生を想像して、と云ふ以上に、東松氏のことを思つて、である。

解説文より:東松照明のモノクロームからカラーへの転換を考えること、それは写真を手段とした一人の表現者の軌跡を辿ることであると同時に、必然的に、見る側の視線のありようを問い返すほどの大きな問題を含んでいるような気がします。 あとで、あれは氣のせゐでした、なんて言つたりして。

横尾 by ヨコオ

企劃展のはうで最終日。前からの疑問。横尾忠則が寫眞をそのまま使つたり、それを模寫したりするのは知られたことだが、自分が直接によく知つてゐる筈の人、たとへば三島由紀夫、を描くときに他人の寫眞、たとへば篠山紀信の、を下敷きにするのはどうしてなのか。今でも夢の中で遇ふといふくらゐなのだから、他人が作り、他人の中で流通するイメージを借りてくる必要が何故あるのか。もちろんそれが結果として横尾自身のイメージになつてゐることは承知だが。

H15-8-10

『ひまわり』

今さら言ふべきこともない頗る有名なイタリア映畫だが、あらためて見ると、寫眞が重要な役割を擔つてゐることに氣づく。出征前に撮られた男の寫眞は、過去の幸せの象徴である。その寫眞を眺めながら彼の歸りを待ちつづけたあげく、それを手に女は、彼を探す旅、つまり幸せを取り戻す旅に出る。再會した彼は、もはや昔の彼ではなく、寫眞は女の手を離れ落ちる。それを拾ひ上げた男は、取り返すことのできない過去の自分、失はれた幸福に直面するのである。悲痛な場面であるが、冒頭から「寫眞」の扱ひに注目して觀ていくと、このクライマックスには、「うまいなあ」と、つくづく感心する。

H15-8-5

テレホンカード

何となく思ひ出して、整理してあるテレホンカードを取り出して眺める。これは五百枚ほど。但し使用済み。まあゴミみたいなもの(またはゴミ)である。別にテーマがあるわけでもなく集められた(使つた、拾つた、貰つた)ものだが、これだけあると分類する樂しみが出てくる。タレント、富士山、城、橋、夜景、乘り物(飛行機、自動車、鐵道、船)、動物、昆蟲、花、瀧、神社、佛像、美人畫、無地。

H15-8-4

Tappury

繪葉書整理用にNakabayashi製「はがきホルダー:Tappury」を買ふ。三百二十枚入れることができて特價三百八十ヱン。早速溜つた古繪葉書を入れていつたら三分の一ほど埋まる。成程たつぷり入るな。

H15-8-3

手が汗ばむと本を手に取るのが躊躇はれる。普通に見て傷ついていくのは氣にしないが、指先の脂で、思はぬ場所に拭ひやうのない、はつきりとした指紋をつけてしまふことがある。これを消す方法はないだらうか。

H15-8-2

圖書館の除籍本から椎名誠『シベリア夢幻 零下59度のツンドラを行く』(情報センター出版局、昭和60、改装昭和63)を拾ふ。本を見てゐるこちらは暑さで、汗だく。まるで氣分が出ない。冬になるまでとつて置かう。零下五十九度には遠く及ばない「寒さ」だらうが。

Kato